現代の照明事情にそぐわないアンティークなランプに、灯された炎がちらちらと瞬き、床や天井に複雑な陰影を作り出していた。
相当な年代もの、だが実用本位のライティングテーブルに分厚い本を開き、その前で男は腕を組んで目を閉じていた。

揺れる光が、彫の深いその男の横顔を照らし、壁に生きているかのような影獣を描き出す。
埃が燃える微かな音と衣擦れの音だけが、静寂の中で響いていた。
外界の流れと切り離されるように、静謐な時間が、身を切るような冷気の中を流れていく。

重厚な装丁の古めかしい本を前に、目を瞑っていた男が薄く目を開いた。

静寂が破られ、そして、時間が動き出す。


男がしなやかに立ち上がった。
音もせずに、柔らかく流れるような動作は練達の武道家か、猫科の野生動物を連想させる。
見上げるほどの上背を誇るが、教会特有の高い天井のため、閉塞感は感じない。
パタンと音を立てて本を閉じ、壁の本棚に直す。そして、その体制のままで動きを止めた。

「……不愉快この上ないな」

言峰綺礼は静かにつぶやいて、無表情なままドアの方に顔を向けた。

視線の先には見慣れたドアがあるだけだった。
が、次の瞬間、紙をすり合わすような微かな音と共に、ドアと床の隙間から黒いものがあふれて出してきた。
流れるように手が動き、長衣のうちに仕込んだ黒鍵に手を添えたが、床に広がる黒いモノが、それ以上進入してこずに一箇所に固まるのを見て、動きを止めた。

よくよく見れば進入してきたのは、真冬にも関わらず活発な動きを見せる、何十匹ものコオロギだった。
綺礼に相対し、群体で床に魔方陣を思しき意匠を描き、いっせいに羽を広げる様は、一種のカリカチュアに見えた。

いっせいに鳴り始めた騒音一歩手前のコオロギの音色の中に、明らかな人間の声が混じっていた。

『また会ったのぅ…というべきかな?』

媒体経由とはいえ、張りのある圧迫感を伴うような声色が床の黒い澱みから響き出でる。
予想はしていたが、先の公園で遭遇した声であることを、改めて認識した綺礼は注意深く辺りの気配を探る。
手持ちの戦力を聖杯の奪取に差し向けている今、自分の身を守るのは自分の力だけだった。

ある意味、傍観者に徹して状況を俯瞰していた綺礼は、不自然な要素で計算が徐々に狂いだしていることに気がついた。
ランサーの事前偵察の情報も価値が薄れ、不確定要素が無視できなくなった。
確固たる確定要素を得るために、危険を承知の上で聖杯戦争の”鍵”の奪取をギルガメッシュに命じた。
同時に、ランサーを連れて対となる”錠”の確認を試みた。

その途中で臓硯と遭遇し、そして歪に変化した危険なモノを認識した綺礼は、拠点に篭ると同時に”鍵”と戦力の確保を優先した。

―― だが、”鍵”の奪取に失敗した。

そして、暴走気味のギルガメッシュが向かった先を知った綺礼は、迷わずランサーを向かわせた。
そこに居るはずの、不気味な存在であるアーチャーからギルガメッシュを守るために。

自分の守りが薄くなることは承知していた。

だが綺礼とて代行者としての実力も実績もある。サーヴァントならまだしも、唯の魔術師にむざむざとやられることは無い。
それに、サーヴァントの動向もある程度把握している。ここを直接襲撃してくる危険性は低いと判断した、
当然、周りの気配には気を配り、感知結界も施していた。

が、進入を許してしまった。
至近距離まで感知できなかったことに対し、正直、相手の力量を評価せざるを得ない。

―― これだから面白い。

偽りの無い、綺礼の心だった。
知らずに薄く笑いの表情が浮かび上がる。

「……間桐臓硯か。さすがに用心深いものだ。
ところで御老体は知らぬと見えるが、最近は電話という便利なものがあるぞ?
わざわざ虫を媒介に使わなくても会話はできように」
『ほうほう、便利になったものじゃな。まぁ、本来であれば出向きたかったのじゃが、今は手がはなせんのでな』
「満足に、出歩くこともできぬ・・・か? そろそろ隠居されてはいかがか? 若い者に任せるが良かろう」
『くっくっく、そうじゃな。その提案も考えておこうよ。
しかし、言峰よ。まだまだ青いのう。我がおぬしの言葉で、そよとでも揺らぐと思ったのか?』
「何のことかな? 私は純粋に御老体を案じているだけだが?」
『かっかっか、さようか、ではありがたく頂戴しとこうかの』

しばらく、床に蠢く黒い塊に向かって慇懃無礼に会話していた綺礼は、興味を失ったように背を向けた。

多少なりとも反応があるかと、つついてはみたが、さすがに老獪な魔術師に効果は無かった。
まあ、これで襤褸が出るようであれば、楽しむ価値すら無い。と感じている綺礼は、次に繰り出すカードを考えていた。
興味の無い振りをした行動とは裏腹に、思考を巡らせる。

壁際のソファにどっかりと座った綺礼は、肘掛に肘を突いて顎を乗せる。

「で、わざわざ何用かな? 懺悔をしにきたわけでもあるまい」
『かっかっか、言峰よ、
―― おぬしは何ゆえ聖杯を望む?』

思考の結果、様子を見る判断を下した綺礼に対し、意外にも臓硯は単刀直入に直球を投げ込んできた。
あまりにも唐突過ぎるボールを受けた綺礼は、目を訝しく細めた。その眼に正視できない鋭い光が宿ってくる。

「……何を言い出すかと思えば。下らぬことを。他人の望みなど聞いても仕方あるまい?」
『確かにな。では聖杯を見せてやる。といえばどうする?』
「なに? 聖杯を見せるだと? まだサーヴァントは残っている。今の状況では聖杯も顕現しないはずだ」

続けざまに投げ込まれるボールで綺礼は、臓硯の意図が読めなくなった。
まさか手の内を晒して来るとは予想だにしていなかった。
だが、臓硯が、碌でもない魔術師が持ちかけてくる取引に、まともな物があるはずが無い。
経験から来る感覚は、これ以上話をするな。と告げ。
打ち切って耳を貸すな。と警告を盛んに発していた。
だが、続いて発せられた臓硯の言葉に、ハンマーで殴られたような衝撃を受け、その警告も霧散した。

『とぼけなくてもいいわい。わざとらしい。お主、役者としてはいま一つじゃな。大根じゃ。
我は「聖杯」を見せてやる。と言ったのじゃ。紛い物でもただの聖杯でもない、「真の聖杯」をな。
お主にその意味が判らないわけはなかろう』

その言葉は、この10年で一番の衝撃だった。
背もたれに体重を預け、意味も無く天井を見る。

「……何が言いたい」

再び視線を戻し、辛うじて出た声は錆付いたドアの様に掠れていた。


『なあに、代わりに少し手伝って貰おうかと思ってじゃな。わざわざ顔を出したということじゃ。』
「ふん、本体は安全なところで高みの見物か。」
『どうじゃな? 少し話を聞かんか?』

臓硯の声には明らかに勝利者の余裕が感じられていた。
相手の掌で踊るのも癪だが、確実に有効なカードを持っているのは臓硯の方だった。
逆転のジョーカーは綺礼は持ち合わせては居なかった。
しばらくの逡巡の後、綺礼の口が開いた。

「……いいだろう。話を聞いてやる」
『ほっほっほ、いやあ、話がわかるのう、おぬし』

表面上は変わりなく、内面では混沌とした思考を纏いながら、綺礼は話を聞くことにした。
嬉々として話し出す臓硯の使い魔たちを、鉄の様な目で見ながら。

『では――』

教会の一室で一つの取引が行われていた。しばらくして、気配の一つが消えていった。
取引が成立した。悪魔の取引が……。



―― 闇が濃くなっていく。
肌が切れるような冷気と共に、冬木の地一帯にどこからとも無く妖気と呼ぶべき気配が立ち上り、薄く静かに広がっていく。

ふと、白い影が大地を見つめる。
ふと、黒い影が空を見上げる。

そして、どこかで、閉ざされていたものの最後の封印が外れていく。


Chapter 29 斬艾


壁が崩れ、爆撃でも受けたように荒れ果てた庭の中央で、青い猛獣と称するにふさわしい人物が、魅入られそうな禍々しさを放つ、真紅の槍を掲げていた。
その口元には、ようやく叶えられる望みを予感し、歓喜の表情を張り付かせている。
まるで、虎や豹が笑っているような獰猛な笑みを。

ランサーは槍の穂先を、道場の屋根に向ける。

「さっさと降りて来い、アーチャー」

唸る様に言い放つ先には、月光を彫刻したような美しい神像があった。
神像は、不意に空を見上げ、流れる風に髪をそよがせる。流れる雲がまばらに浮かび、月を隠しては流れていく。
黒に近い濃藍の夜空を背景に、漆黒の影、その立ち姿は一種の絵画じみており、ランサーにつられて目が行った凛やセイバーですら一瞬息を呑んだ。
見慣れているにもかかわらず、そこにあるものは一つの奇跡。

魂を抜かれそうなその姿は、人の在り様と大きくかけ離れている様にも思えた。

ただ唯一の欠点といえば、あまりにも眠そうな、退屈そうな、のんびりした表情を纏わせていることだった。
らしからぬその表情がすべてを台無しにしていた。

視線を戻した屋根の上の神像が口を開く。造形師が魂を売り渡しても描きたいと思うほどの整った稜線を描く口から出た声は、のんびりとした眠そうな音色に満たされていた。それは、その表情に相応しく、その存在に対しては異質であった。
特段張り上げているわけでもないが、不思議と全員の耳に届いた。

ただ、理解するまでには、数瞬の間が必要だった。


「……暴力反対」


全員が聞き違いと思った。
凛はセイバーを、セイバーは凛を見た。
そこに互いの呆けた様な表情を見出し、軽く耳をたたいた。
鏡のように寸分たがわぬ動作をひとしきり行った後、同じタイミングで声が出た。

「え?」「は?」

数瞬見つめあった二人はそろって、イリヤを見た。
見つめられたイリヤはきょとんとした表情のまま、ぶんぶんと頭を振る。

「やっぱり」
「聞き違いでは」
「ないようね」

呆然とした3人の呟きが交差し、三対の視線が黒衣のサーヴァントに向けられる。
涼しい顔のアーチャーはあさっての方向を向き、口笛を吹いてる真似すらして、しれっと立っていた。

急に生暖かくなったような空気を、庭の中央からの地の底を這うような唸り声が吹き払った。
槍を握りつぶさんばかりに握る手が、そして肩が小刻みに震えている。

青い獣が歯軋りをしながら、錆付いた声を絞り出した。

「てめぇ。この期に及んでどういうつもりだ? さっきの約束はどうした?」

その眼光は鋭く、魔眼の様に煌き、相手を呪い殺すような、正視できない程の禍々しさが踊る。
唯の人間では頓死しそうな、その眼光を、黒きサーヴァントは柳に風と受け流していた。

「はて? 何のこと?」
「戦士の誓いを無視するのか!? アーチャー」
「僕は別に戦士じゃないし、誓ったつもりも無い」

怒りも突き抜けると、何かが切れて無表情になってしまう。
暖かな赤い炎も温度を上げていくと青白く冷たい光になる。

それを地で行くランサーがそこにあった。

ランサーにとって”誓い”とは神聖な物だった。
その、存在にかけても守るべき誓い。彼はその誓いを守って戦い抜き、波乱の人生を駆け抜けた。
その誓いを侮辱された。ランサーがそう考えてもおかしくは無い。
想いはセイバーにも伝わるのか、同じく誓いを神聖視する金砂の髪の少女は、多少の非難をこめた微妙な視線でアーチャーを見つめる。

翻ってアーチャーにとって”誓い”とはなんら意味の無いものであった。
彼の住む<新宿>の大多数の住人にとって、”誓い”とは辞書の中に存在するだけの言葉であり、その地ではなんら価値のないものであった。
騙し騙され、生き馬の目を抜くような世界の中で、誓いに固執することは、死を意味した。
目の前の妖物を倒すのは、誓いではなく力であり、言葉ではなく武器だった。
力のない者の誓いほど意味のないものは無かった。
そして、力を持つものは例外なく誓いを口にしなかった。

唯一の例外は白衣の医者が患者に向けた誓いのみだろう。


「……けっ、とことんいけすかねぇ野郎だな、テメェ」

何かを振り払うように、ぶんと槍を振り、打って変わって氷の様な声でランサーがつぶやく。
その冷静な声が、彼の怒りを如実に表せていた。
その背には青白いオーラが漂う。

「どーも」

あくまでも能天気な若旦那の風情のまま、微笑を湛えたアーチャーがそこにいた。
平常時となんら変わることの無い態度に、下から見上げていた凛たちは、一抹の不安を感じていた。
目の前のサーヴァントは自分が置かれている状況を理解しているのだろうか?と。
三名の観戦者の焦燥とは裏腹に、事態は推移していく。


「そっちがその気なら、嫌でも戦わせて…くっ!!」

言葉の途中でランサーが霞んで消えた。
庭の端に飛びのいたランサーの額から、つつっっと赤いものが滴り落ちる。
その流れは鼻梁で2つに分かれた。


「ありゃ、惜しい」

のんびりした口調でアーチャーがつぶやいた。
暴力反対というお題目を唱えながら、不意をついた一撃を放つ。あまりにも信念の無い行動に、凛は頭を抱えた。己がサーヴァントは、見た目は絶品だが、少なくとも、その精神構造は捻じ曲がっていると。


「おもしれぇ」

口にまで垂れてきた赤線を舐めたランサーがにやりと笑う。
次の瞬間、青い獣は掻き消すように消えた。
同時にアーチャーが何かに引っ張られたように、母屋の屋根に飛ぶ。
先ほどまで居たところに、青い稲妻が奔り、赤い槍が振り下ろされる。
道場の屋根に大穴を空けたランサーは、流れる動きで槍をひらめかせ、頭上に弧を描く。
その弧に沿って、火花の様なエーテルの残滓が滝のように飛び交う。

「ちっ」

ランサーが何かをかわすように、転がって横に飛びのいた。と同時に母屋のアーチャーに飛び掛る。
庭の木が大きく傾いだところを見ると、幻惑する為に斜めに飛び出して視界の外から襲い掛かったに違いない。
先ほどと同じように中空に飛び出したアーチャーの頭上に青い獣が現れた。

「同じ逃げ方が通用するかよっ!!」

裂帛の気合で突き出された赤い槍は、物理法則を無視したように、直角に降下したアーチャーの、ロングコートを掠めるにとどまった。

瞬間的な速度ではランサーがアーチャーを圧倒していた。その事実がランサーの攻撃を加速させる。
地面に降り立つと同時にランサーは、その俊足を生かし、前後左右あらゆる方向に回り込みながら、猛攻を加える。
が、見えない壁に受け流されたように穂先がぶれ、あるいは想像外の方向に逃げられ、決定打が通らない。
第六感によるものなのか、死角からの攻撃すらアーチャーには決定打にならなかった。
連打を加えようとして、少しでも大振りすると、とたんに見えない斬撃が繰り出される。
微かに、高音の弦を弾くような音が連続して響き、ランサーの周りに火花が飛ぶ。

数瞬の攻防の後、アーチャーは安全圏にいったん退避した。
即ち、

――空中へ。

「ちょこまかと、逃げやがって」

さすがに無傷とは行かなかったのかアーチャーの肩や首筋に血が滲んでいる。
一歩間違えれば致命傷になるような、傷もあるが、アーチャーの表情は変わらない。

その時、道場の一角が崩れ落ちた。
鋭利な刃物で切断されたような、滑らかな切り口が両断された太い梁に残っていた。


一分にも満たない攻防だったが、崩れる音にふっと我を取り戻した凛は、あまりの緊迫感に、知らずに呼吸が止まっていたことに気がついた。
深くため息をついて、体の中の澱んだ空気を吐き出す。
知らない間に相当緊張していたらしい。

握り締めた拳と背中に汗がじっとりと滲み、徐々に冷たくなっていく。
目を離さないまま、横目で隣に立つセイバーを見た。
セイバーは厳しい表情をしていた。

「セイバー、あなたから見て、アーチャーは勝てそう?」
「……リン、アーチャーは間違いを犯しています」

同じく戦いから目を離さないセイバーの声は硬かった。

「え?」
「やはり、アーチャーはアーチャーです。彼にとって接近戦でランサーと戦うことがどれほど危険なことか――。
これが遠距離戦であればアーチャーの圧勝なのでしょうが……
しかし、正直言って感心しています。よく致命傷を負わずに、あのランサーの槍を回避しているものだ。と」
「それって、まさか」
「……えぇ、アーチャーがこれ以上の隠し玉を持っていないのであれば、遠からずランサーの槍に引っかかるでしょう」
「そんな……」
「ただアーチャーは、未だに宝具を使っていません。それ次第だと思います。英霊であれば何らかの宝具は所有しているはずですから……ですが……」

愕然とした凛は空中に浮かぶアーチャーを見た。
表情に変化はない。が、内心焦燥しているのか、だらんと垂らした両手の指でしきりに、紙縒りを作るような動きを見せていた。
その姿を見て、不安に駆られる。

(アーチャーが負ける? まさか、そんな……)

宝具。英霊が持つ、英霊を象徴するモノ、そして強力な力。

(確かにアーチャーは英霊ではないわ、だから宝具も持っていないかもしれない。)

(でも、私を護衛してくれるって言った。柳洞寺でも、慎二の虫達から守ってくれた。教会でギルガメッシュとランサーに遭遇しても無事に帰ってきた。)

(それに、召喚した時の存在感を私は覚えている。それは今のランサーに劣るものではないわ。
そんなアーチャーが負けるわけが無い。負けるなんて! 負けるなんて!!!)

そんな想いが言葉になって口を突いた。

「私のアーチャーが負けるなんて許さないわ!! 許さないんだから!! 勝ちなさい!! アーチャー!!」

セイバーがびっくりしたように、突然叫んだ凛を見る。
凛の真剣な、それでいて泣きそうにも見える横顔を、まじまじと見つめた後、透き通った微笑を浮かべて戦場に眼を戻す。

「そうですね、リン、貴方が呼んだサーヴァントです。負けることは無い。アーチャーを信じましょう」

祈りの様な呟きが零れた。



「おーおーお、愛されてるねぇ。
だが、テメェの得物がようやく見えたぜ。鋼線だな。それもとんでもなく細い
道理で俺の矢よけの加護も効かねえはずだ」
「ご明察」

下から彼らを見上げる、飛び切りの美少女の叫びは、道場の屋根に飛び上がっているランサーにも届いた。
それを、耳にしたランサーは、揶揄するように夜空に佇むアーチャーを見上げる。
黒衣のサーヴァントは、これほどまでの戦闘を繰り広げながらも、少女に無理難題を押し付けられながらも、表情には特に変化が見受けられない。

空中に留まっているアーチャーに、飛び込んで届かない距離ではないが、どうしても直線的な軌道になってしまう。
そうなると迎撃は容易になり、うかつに飛び込むわけにもいかくなかった。
図らずもじりじりと相手の隙を窺う状態に陥ってしまう。

武器が判ったとはいえ、不可視の攻撃は変わらない。
アーチャーの振るう鋼線が宝具なのだろうが、特にアドバンテージができたわけでもない。

ランサーは、今までに戦った中でも飛び切りの難敵だと痛感していた。しかし、同時にこの上も無い歓喜も感じていた。

すっとぼけた感性を持ち、命のやり取りの最中でも、髪の毛一筋ほども揺るがない強靭な精神力を持つ敵。
見えない斬撃に、柔らかい刃物という矛盾する武器を使用する敵。
これだけ攻撃したにもかかわらず、大してダメージを与えることができない敵。
そして、この上も無く濃密な死の気配を漂わせる敵。

その事実すべてがランサーにとっては新鮮だった。

見えない攻撃を回避すること自体は不可能ではないが、簡単なわけではない。ちょっとでも気を抜けば一瞬で斬られてしまう。
あまつさえ、攻撃と同時に、それを防いだ槍に巻きついて絡め取ろうとする。
得意な白兵戦に持ち込みながらも、どっちに勝利が転がり込んでもおかしくない、そんな綱渡りの様な戦いだった。

「しかし信じられん技だな。見たことも聞いたことも無いぜ」
「どうも」

唸るような声に対して、にんまりと笑うアーチャー。褒められたのが嬉しいらしい。

未知の強敵との戦い。それはランサーが望んでこの戦争に参加した理由。

今、この瞬間にその望みが叶えられている。知らずランサーの顔が綻んでいく。
彼を初めに呼び出した魔術師のことも、教会のいけ好かないマスターも、一切が彼の心から消え、目の前の黒い強敵と戦うことだけが彼の心を占めて行く。
柵の一切を捨てて、ただ、命のやり取りをする。そして、目の前の存在は、そのやり取りに律儀に答えてくれる。
すべてを出しきって戦うべき相手。真なる敵。

己の双極。それがランサーがアーチャーに与えた称号。

ランサーは心の底から笑いたくなった。世界に感謝すらした。
良くぞこの相手に巡り合わせてくれた。と。

この期に及んで、相変わらずのんびりとした雰囲気のアーチャーを見つめ。ランサーはゲイボルクを肩に担ぐ。

「おい、アーチャー。名前を教えろ」

つい数秒前まで、命を懸けたロシアンルーレットをしていた二人。
しかしそのような間柄であることが想像できない、友人に対するような口調だった。

「ばっ、バカいってんじゃないわよ。どこの誰がわざわざ真名を教えるってのよ!」
「外野は黙ってろって。俺はアーチャーに聞いてるんだ。どうせお前らは俺のこと知ってるだろーが」

ランサーの唐突な問いかけにセイバーは目を見開き、凛はあわてて口を挟む。

青い獣は鋭い視線で凛を一瞥して吐き捨てる。
その瞳には剣呑な輝きが篭り、凛は本能的な恐怖を感じ、一瞬言葉に詰まる。
その間隙に天空から、簡素な言葉が振ってきた。どこか力の抜ける、気の無い声で。

「秋せつら」

「アーチャー!!」

特に迷いも無く、名前を告げるアーチャーに凛とセイバーは目を剥いて非難した。
サーヴァントがクラス名を使って真名を隠す理由。
それは英霊固有の弱点の隠蔽をするためで、真名がばれると言うことは相当なデメリットを生じさせる。

しかし、世界の住人でもなく、英霊でもないアーチャーは名前を明かすことにも特に禁忌を感じなかった。

もし仮に真名がわかったら弱点が漏洩する。という状況であったとしても、黒衣のサーヴァントは歯牙にもかけなかっただろうが……。

「ありがとよ、ってことは教会で名乗った名前が真名だってことか。
なるほどな、真名なんて関係ないってか……いいねぇ。
実にいい。
じゃあ、俺の方も、ちぃっとばかり本気でいかせてもらうぜ。
だから、お前も本気で来い」

ランサーはアーチャーの答えに満足したように、笑い、一転して表情を引き締める。
槍の穂先を地面に向け、EOLH、NAUTHIZ、ANSUZ、INGWAZ、それぞれのルーンをゲイボルクの穂先で四隅に刻み陣を張る。

「な、何?」

凛はランサーが何か強力な魔術を発動したと身構えたが、特に何かが変化した様子も見えず、大きな魔術的な流れも感じなかった。
いぶかしむ少女の横で、何かを考えていたセイバーは、はたと気がついたように顔を上げる。その顔は真剣そのものだった。

「あ、あれは……」
「知ってるの? セイバー?」
「ええ、伝聞が正しければ……あれは……」

「ほほう、セイバーは知っているか。なら話が早い。
四枝の浅瀬(アトゴウラ)の陣、この中では敗走は許されず、退却も許されない。我ら赤枝の騎士に伝わる、一騎打ちの禁戒だ。
それもとびっきりのな。
この俺が、再び使うことができるとは思わなかったぜ。
そして、この中では、俺は……無敗だ」

そういったランサーの形相が変わっていく、元から上げていた髪がうねる様に逆立ち、眼は獣のように爛々と煌いていく。
もとより獣じみた男ではあったが、その印象をより強め、獣気をまとい、剣呑な人外の雰囲気を纏っていく。

「いくぞ、アーチャー、この俺を前に空中が安全圏と思うなよっ!」
「はぁ」

アーチャーの気の抜けた返事と共に、背を丸めたランサーが消えた。

「早い!」
セイバーの呻く様な呟きは、何かを連続して断ち切るような音が掻き消した。
飛び掛かるランサーの軌道から、空中をふっと横に移動してやり過ごそうとしたアーチャー。
だが、その動きに追随して、空中でランサーも軌道を変える。
霊体化しての移動ならまだしも、実体化しながら、足場も何も無い空中で方向を変えるランサーの動きは尋常ではなかった。

「……ねぇ、ランサーって空も飛べたっけ?」
「いえ、あれは、一種の跳躍術です。彼が真実アルスターの御子であるのであれば、使えて不思議はありません。
確か、影の国の魔女に教えを請うたとか。
しかし、さすがです……。半神でもある大英雄、神話の中の英雄……」

震える声で凛が問う。セイバーの表情は台詞と裏腹に、激情を押し殺して無理やり平静を装うような、そんな気配があった。
アーチャーのアドバンテージが次々に消されていく。唯一残っていたと思われた空中戦でも、ランサーは追いついて見せた。
そして、凛もセイバーも知らない、ランサーの陣が徐々に効力を発揮していく。

倍化した速度の槍を、紙一重でかわしながらアーチャーは広い空間に退路を求めた。
が、なぜか衛宮家の敷地から外には離脱できなかった。薄い空間断絶があるように、外に逃げることは適わなかった。
その一瞬の隙を突いて、突如として頭上に青い光が煌く。
にぃっと笑って現れたランサーの、神速の一撃は回避できなかった。

アーチャーは無意識の動作で左手をかざして受け止めようとする。
だが、ランサーの穂先は押しとどめるように開いた手の前で壮絶な火花を散らした後、アーチャーの防御を突き破った。


上空の魔戦を見ていた少女たちは、何かに押しとどめられたように不自然に停止したアーチャーが、赤い槍に貫かれる姿を見た。
声にならない悲鳴が上がる。


ランサーは相手の一瞬の戸惑いを突いて、その頭上に飛び込み、己が持つ最速の突きを放った。
心臓を突き刺すはずだった一撃は、アーチャーの防御で惜しくも心臓を外れた。
平然と腕一本を犠牲にして、致命傷を回避するアーチャーのセンスに舌を巻く。

「ちっ」

追撃を掛けようとしたが、アーチャーの斬撃の気配を察知し、即座に距離を取り地上に降り立つ。

視界の片隅で銀と青が動いた。

「セイバー! 今は俺とアーチャーの戦いだ。無粋な真似はするな」

蒼白になった赤い少女と、その横で今にも抜剣しそうな構えを見せるセイバーを、横目に一瞥したランサーが怒気を含んだ声で言い放つ。

その間もアーチャーは相変わらず上空に佇んでいた。が、ぽたぽたと落下する赤い雫が、先の一撃で軽くない傷を負っていることを示していた。
それを見た凛は、自分が立っている地面が崩れていくような、そんな不安を感じた。
知らずにアーチャーの令呪を抑える。令呪はまだしっかりと存在を示していた。それを感じた凛は、まだ最悪の状況ではないことを本能で理解した。しかし、絶望の瞬間はすぐ間近に迫っているようにも思えた。
そんな凛の葛藤を他所に、セイバーとランサーが遣り合う。

「ランサー、一方的な陣を張った、この戦いはフェアでは―」
「戦いに、そんなもん関係ねぇ! オマエだって判ってるだろーが」
セイバーが張り上げた声に、被さる様に張りのある獣声が響く。

「ルールがあるとすれば唯一つ。どんな手段を使おうとも倒すか倒されるか。だろうーが?」

言葉に詰まったセイバーが何かを言い募ろうとした瞬間、ランサーの腕が霞む。

「ちぃっ」

ランサーの槍の軌道に今までに倍加する勢いで、エーテルの微細な花が咲き誇る。
霞む真紅の槍が、豪雨のように降りかかる斬撃を、すべて跳ね返していく。

「くっ、テメェ、同時に何本使ってやがるっ!」
「ご想像にお任せします」
「しゃらくせぇ」

左手を貫かれ、肩も負傷したこの期に及んでも、なんら変わることなく、のんびりとした口調のアーチャーに、面白くて堪らない様な表情をしつつ、ランサーが叫ぶ。
アーチャーの眼が一瞬細くなった。
次の瞬間、ランサーは驚愕をこびり付かせた表情で、アーチャーとは、まるっきり別の方向に向けて槍を払い、同時に体を大地に投げ出して、そして跳ね飛んだ。

「ふむ、これも通じない……か。さすが、古の大英雄」

アーチャーが珍しく感心したように呟いた。


「なっ、アレを回避するとは……」

セイバーはその卓越した戦闘スキルで、何が起きたか正確に把握した。
それ故、双方の底知れぬ能力に、言い知れぬ不安を覚えると同時に、戦士として魂が目の前の真剣勝負が羨ましくも思った。
剣を持つものの業なのか、心底彼らと戦ってみたかった。

「何? 何があったの?」

凛が恐々とセイバーに尋ねる。
そもそも彼女にはアーチャーの攻撃は見えない。それゆえ目の前の攻防は、さすがに何がおきているかわからなかった。
必然的に”見えて”いるセイバーに解説して貰うことになる。


「いえ、アレを放つアーチャーを褒めるべきなのか、回避したランサーを褒めるべきなのか、悩みますが、一種の反射攻撃です。」
「???」
「斬撃を障害物に反射させて、目標に向かわせ、タイミングを見計らって別の斬撃を放ち、同時に攻撃する技のようです」
「それって前と後ろから同時に攻撃されるってこと?」
「端的に言えばそのとおりですが、同時に2箇所とは限らないようです。」
「……そんなことができるの? って愚問だわね」
「おっしゃるとおりです。私にはできませんが、アーチャーはできるのでしょう。しかし、その必殺に近い技を、初見でかわすとは流石にランサーと言うべきか……」


セイバーは凛の質問に答えながら、アサシンとの戦いを思い出していた。
彼のサムライの燕返しは同時三連撃の多重次元屈折現象だった。
今のアーチャーの攻撃は、ある種の同時二連撃、そのうえ一瞬にも満たない時間だが、確実に時間差があるために、アサシンの技に比べて回避はしやすい。それは確かだ。

ただアサシンの攻撃は、あくまでも刀の届く範囲を超えることは無い。
しかし、アーチャーの攻撃はその制限が無い。今の攻撃が三、四と増えてくれば……それも全方位から放たれた場合、回避できるのだろうか。冷たいものが背筋を走る。

私は、アーチャーと相対した場合、勝てるのだろうか……
二人の戦いを見ていると、徐々に不安が大きくなっていく。


「ぐぁっ」

セイバーの思考はランサーの苦鳴で現実に引き戻された。
「リン、何があったのですか?」
「判らないわ、急にランサーの足が切れたわ
アーチャーが何かしたんだと思うけど……」

凛の言葉を聴いて、セイバーはひざを突いたランサーを見つめる。

「ばかな、いつだ?」

庭の端でランサーが呆然とつぶやいている。
その右足には縦横無尽に裂傷が走り、流れる血が大地を黒く染めていた。
無意識の動作でSOWILOのヒーリングルーンを傷口に刻み込み、大地を呆然と見ていたランサーが、何かを見つけたように、槍の穂先で地面の一点をつついた。

「くっくっくっ、あっはっはっは、アーチャー、俺を嵌めたな?」
「ばれた?」
「いつだ、いつ仕掛けた」
「さっき。でも本当だったら下半身がなくなるんだけど元気だね」

豪快に笑い出したランサーが、いたずらを仕掛けた子供がするような眼をしたアーチャーを見る。
軽くアーチャーがため息を吐いたのは、仕留められなかったからなのか、別の問題か。

「まさか、そんなものまで……」
セイバーは確かに見た。
ランサーの穂先がつついた、髪の毛一本ほどの塊を。
それは一種の地雷。アーチャーの鋼線をより合わせて作られた、踏んだと同時にはじける罠。
眼を凝らして見れば、ランサーの周りに幾つか転がっている。

が、それがすべてかどうかわからない。

攻撃を加えると同時に、罠の方向に意図して隙を設けておく。戦場で相手の動きをコントロールするオーソドックスな方法。
それをアーチャーは1対1という決闘の状況下で、悟られずに設置していた。
こればっかりは流石に予想がつかない。

「しかし、お前は本当にびっくり箱だな、アーチャー」
「どうも」
「一体、どんな経験をしてる? 興味がわいてきたぜ」
「ははっ」

表面上は傷が癒えたのか、ランサーが立ち上がった。
それまでの間、特に攻撃もせずに、ランサーとの雑談に興じるアーチャーの神経は、やはり凛には判らない

「ところで、もう、やめない? できれば殺したくないんだけど」

幾分真剣になったアーチャーだが、それでも、戦場にいて、半身血だらけという状態の人間の持つ雰囲気ではない。

「誰が誰を殺すだと? うぬぼれるなよ、アーチャー、死ぬのはオマエの方だ」

アーチャーの一言で、一転してその場に張り詰めた空気が流れる。
その雰囲気を作ったランサーが、魔力を高めていく。

「……そろそろ終りにさせて貰おうか。
力、技、戦術に、図抜けた精神力。すべてが俺の敵に相応しい。
光神ルーが一子、クーフーリンが誓う!!
我が敵、秋せつら。

―――その心臓
貰い受ける」

真紅の魔槍、ゲイボルクをくるくるとまわし、ランサーは構えた。
左手を穂先に沿えて、全身をばねの様にたわませる。凶悪なまでの魔力が呪いの槍に収束する。

しかし、アーチャーは動かない。

「アーチャー!! 駄目!! それを受けちゃ、きゃぁっ!!」
凛が叫んで思わず令呪を使用しようとしたが、急に全身に激痛が走り、集中すらできず、へなへなと崩れ落ちる。
「リン! リン! 大丈夫ですか!!」
とっさにセイバーに抱きとめられ、崩れ落ちる寸前でなんとか踏みとどまる。
そして”私は大丈夫”と目で語った。

呪いの槍に魔力が渦巻いていく。それでもアーチャーは動かない。

よろけながらも、凛はアーチャーを見上げた。
黒いコートの上の顔は、いつもと何も変わらなかった。

「あえて受ける気か、秋せつら。
――では見事受けて見せよ、わが槍の一撃を。
突き抜けろ!! 刺し穿つ(ゲイ)死棘の槍(ボルク)――!!」

ランサーから放たれた赤い槍は因果を駆け巡り、黒きサーヴァントへと疾駆する。
その侵攻にはいかなる妨害も”無かったこと”にされる。
因果を巡る呪いの槍、放たれた時点で狙った相手の心臓は穿たれる。
空中で叩き落そうとするアーチャーの攻撃を、あざ笑うかのごとく槍がすり抜けていく。

空中に留まる黒影に向かった赤い槍が突き刺さる。
心臓の前で握った手があるのは、穿たれる前に掴もうとしたのだろうか。
無駄だ、俺の槍ははずさねぇと青いサーヴァントは無意識につぶやいた。

その一撃で、くの字に曲がり顔を伏せたアーチャーの動きが止まる。

「取った……?」

あまりにも呆気ない幕切れに、ランサーは一瞬戸惑った。
その一瞬の隙が命取りとなった。

「がぁっ」

全身を焼き尽くす様な痛みが、ランサーを襲う。
脳髄を焦がすような痛みの中で、それを見た。


「え?」
大河と士郎を守りながら、縁側からイリヤは見上げた。
そこにはアーチャーがいた。
―― 赤い槍を胸に突き立てたまま。

「なっ!?」
凛を抱えながらセイバーは見上げた。
そこにはアーチャーがいた。
―― 黒い髪を、漆黒のコートを風になびかせて。

「ア、アーチャー?」
激痛に、その身を焦がしながら凛は見た。
そこにはアーチャーがいた。
―― 彫刻のように美しい繊手が赤い槍を徐々に引き抜いていく。

「……て、…てめぇ」
ランサーは、目の前で何かが変わっていくのに気がついた。
そこにはアーチャーがいた。
―― 伏せた顔をゆっくりと上げていく。

「リン、リン、リン!!」
「……なに、セイバー?」

切羽詰ったような、セイバーの声が、凛の意識を引き戻した。
知らない間に凛の激痛は消えていた。

「令呪は、……アーチャーの令呪は生きていますか?」
「え? え、えぇ」

真剣なセイバーの問い掛けに、あわててアーチャーの令呪を見る。特に変化は見られない。
横からそれを見たセイバーは、凛が一人で立てるのを確認した後、凛の前で立ちふさがって聖剣を抜く。

「セイバー?」
「……凛、……もし、もし、万が一ですがアーチャーが向かってくる場合、私が足止めします。
その隙に即座に令呪を使って止めるか、
―― ここから撤退してください」

「どういうこと?」
「……いえ、杞憂であればいいのですが、あれはアーチャーであってアーチャーでありません。
あなたのサーヴァントとしての役目を果たしているアーチャーとは別の何か。です。
それでも”アーチャー”であればいいのですが……」

状況に戸惑う凛に対してセイバーが硬い声で告げる。
アレが向かってきたら、凛を守って戦うほどの余裕は無い。
セイバーは言外にそう伝えたかった。


凛にはセイバーの言うことが理解できなかったが、あまりにも真剣な彼女に押し切られて頷いた。
「……わかったわ」
槍が突き刺さったはずのアーチャーが、無事らしいのは嬉しいが、本能が得体の知れない恐怖を感じていた。
何かが違う。さっきまでと、何かが違う。
いや、誰かが違う。そういえば、セイバーは何と言った?


全員の視線が一点に集中する。

そこにはアーチャーがいた。
―― そして、
―――― ”アーチャー”はいなかった。


「……投げると、狙った相手の心臓に既に突き刺さっている必中の魔槍ゲイボルク、因果を入れ替える呪いの槍」


アーチャーが口を開く。
―― その声は不思議と全員の耳に届く
―― その声はアーチャーの声だった、そしてアーチャーの声ではなかった。
―― 空気が凍っていく。


「では、一つ聞こう、狙った相手がいなかったらどうなる?」

アーチャーが口を開く。
―― 月光がその顔を照らす。
―― その顔はアーチャーの顔だった、そしてアーチャーの顔ではなかった。


「……なに?」

原因不明の激痛の中、身動きもとれずにいたランサーの顔が呆ける。
いつもの茫洋たる雰囲気とは一変し、剃刀の様な雰囲気を、極北のブリザードを身に纏ったアーチャーがそこにいた。
夜の闇よりも深い闇に紛れ、死神よりも濃い死の気配を纏って。

「槍が突き刺さった”僕”はいない。
……”私”と会うのは始めてだな、ランサー、いや、クーフーリン、古の大英雄よ」

光の届かない深海の様な黒瞳がクーフーリンを射抜く。
見つめられたクーフーリンは、更なる強敵を感じた。

「そっちが本性か?」

原因不明の痛みに耐え、言葉を紡ぐクーフーリンだが、何かに縛られているように身動きができない。

「どうやって私の糸を防ぐ? クーフーリン」

穂先が赤く濡れた真紅の魔槍を手に、静かに夜の結晶が問い掛ける。

「何? くっ、戻れ。がぁっ!」

ゲイボルクを引き寄せようとしたクーフーリンは、同時に全身の皮膚に突き刺すような激痛を感じて集中を妨げられる。

「無駄だ、クーフーリン
呪いの槍は君の槍ではあるが、同時に君だけの槍ではない
君の敵を滅ぼす槍でもあり、同時に君を滅ぼす槍でもある
君が槍を私に”投げ渡した”時点で、君の運命は決まった。」

己の運命をトレースするような言葉に、射殺すような視線がせつらを射抜く。
音も無くせつらが大地に降り立った。
しばらく視線が交錯する。
力が抜けたのはクーフーリンの方だった。

「ふっ、負けたか、
―― まさか俺のゲイボルクをそんな手でかわす奴が居るとは……な」

不思議とすがすがしい表情になったクーフーリンが、さばさばしたような口調で自嘲する。
戦闘時の威圧感も霧散した。

「……一つ聞く」
「なんだ?」
「なぜ逃げない? 霊体化すれば逃げれると思うが?」

せつらが相手に問い掛けることは滅多に無いが、その千分の一、万分の一の事象がそこにはあった。

「はははっ、四枝の浅瀬(アトゴウラ)を張ってまで戦ったんだ、俺が俺である以上、禁を破って逃げることはできねーよ。」

不思議と痛みも無くなり、自由になったクーフーリンは胡坐をかいて、せつらを見上げる。
その瞳にはある種の満足感があった。

「そうか」
「そうだ、それが俺の誇りだ」

せつらは静かに佇む。

「まあ、面白かったぜ。っと、ありがとよ、このくそったれな戦争の中で、唯一本気で戦うことができた。感謝する。
おめえらは、最後まで残れよ。まあ、このアーチャーとセイバーが居れば大丈夫かも知れんが」

クーフーリンは胡坐をかいたまま、凛たちのほうを見て、何かをやり遂げたような満足そうな顔で声をかける。
屈託の無いその笑顔は、敵であるということが信じられなくなる。

「ランサー……」

凛はかける言葉が出なかった。
そしてセイバーは気高い戦士に向かって軽く頭を下げる。

「では、さらばだ、英雄クーフーリン」
「ああ、またな、秋せつら。次は勝つ」

ランサーが答えた瞬間、あっけなく首が落ちた。その首は不思議と穏やかな表情だった。

一陣の風が吹きぬけ、木々を騒がせる。
ランサーの姿が、急速に拡散し、そして風に消える。

偉大な英雄が、静かに戦争から去っていった。
誰も声を出せない、静寂な時間が流れた。

別れを告げるような風が舞い、そして雲が流れる。

アーチャーの手にあった槍が、主人を追いかけるように消えていく。やはり自分の主人はクーフーリンだ。というように。
微動だにせずにアーチャーは消えていく槍を見ていた。


身も凍るような張り詰めた空気の中で、意を決したように、凛がアーチャーに声をかける。
「あ、あの、アーチャー? アーチャーよね?
え、えっと……」

凄絶な雰囲気を纏った顔を向けられ、凛はそれ以上、言葉を繋げる事ができず絶句する。
一瞬で骨の髄まで凍るような気がした。

《アレは引き当ててはいけないモノではないのか?》
《アレはここにいてはいけないモノではないのか?》
《アレは・・・》

召喚の際の記憶が蘇る。目の前のヒトは……

「アーチャー、一つ答えてください。」
さりげなく凛を守るように前に出たセイバーが、言葉をつなぐ。
既に抜剣している聖剣は切っ先こそ地面に向けているが、返答しだいでは、即座に切りかかると如実に語っていた。

目の前の黒衣の結晶はセイバーを見て無言で続きを促した。

「あなたは…あなたは誰ですか?」

セイバーが、乾いた口をなんとか動かして、言葉を紡ぐ。
風が流れアーチャーのロングコートが翻る。
濃厚な死の気配を纏った視線がセイバーを射抜く。
セイバーがその視線を真正面から受け止める。

《じりりりん》

唐突に電話が鳴った。
その音は、必要以上に響いた。

全員が弾かれた様に、音の方向を見る。
本来の設置場所である廊下から、先日のアサシン訪問時に線を引っ張って居間まで持ってきていたので、庭からでもそれが見えた。
何を感じたのか縁側のイリヤが自分の体を抱きしめる。
まるで骨の髄まで凍えたように。

全員の眼が、衛宮家の黒電話に注がれる。

2回ほど呼び出し音が鳴ったあと、唐突に消えた

なぜか全員が、薄ら寒いものを感じ、誰も動けずに、お互いの顔を見合わせた。

《じりりりん》

再び電話が鳴った。と、同時に、ごとんと硬いものが落ちる音がした。
受話器が外れて、床に転がっていた。

全員が眼を離さずに黒電話を見ていたにもかかわらず、落ちる瞬間は誰も見ていなかった、

「もしもし、メフィストと言う者です。
失礼だが、そちらに秋せつら氏は御在宅かな」

床に転がる受話器から、この上も無く重厚な、神秘を感じさせるような声が流れ出る。

「!?」

その声は一瞬でその場を征服した。
誰も、声を上げることができなかった。


「――タイミングを図っていたか?」

いた。凛たちは声を求めて振り返る。黒衣のアーチャーが、面白くもなさそうに立っていた。

「その声は……、久しぶりだな、せつら。しかも、”私”のほうとは珍しい。で、タイミングとは何かね」
「……まあ、いい。ところで、ここの電話はどうやって掛けてきた?」
「ふむ、私は電話を掛けているのかね?」
「ちがうのか?」
「……実感は無いが、せつらが言うのであれば、そうに違いない。」

テニスの観客のように、凛たちの顔がアーチャーと黒電話を交差する。
唐突に電話をかけてくる見知らぬ人間に、なんの違和感も無く、会話するアーチャー。
凛たちは、一体何が起きているのか、判らなかった。そして口を挟むこともできなかった。

ただ、判ったことは、電話の相手はアーチャーを、それも”私”と自称するアーチャーを知っている、そしてアーチャーもメフィストと名乗る相手のことを知っているということ。

凛が弾かれたようにアーチャーを見る。
そう、そんな知り合いがいるとすれば、アーチャーの世界の人間。
それはどういうことか。

―― 平行世界を越えてきたということ。
―― 彼の大師父と同じことができるということ。

そんなことができる人間はこの世界で、大師父ただ一人。
そして……、そんなことができる人間は、「世界」の制約が及ばないもの。
それは即ち魔法使い――

そんなばかな。

凛とほぼ同じ考察をしていたのか、微かに震えるイリヤと眼が合った。

凛たちの葛藤をよそに、異質な会話が続いていく。

「もうすぐ死人が出る。それを任せたい」

何気ないアーチャーの言葉に、全員が顔を見合わせる。
今の言葉の意味を推し量る。これから死人が出るとはどういう意味か――

「いきなり患者の話しかね、わざわざ迎えに来たというのに連れないものだ」
「能書きはいい、来なければ、それでもかまわん
死人は ―― ”僕”だ」
「何?」

明らかに、電話口の向こうの人間があわてているのがわかった。
受話器が言い募る言葉を無視するアーチャー。

「糸は張っておいた、後は適当に。ではよろしく」

一方的にアーチャーが会話を打ち切った。

《ちん》と軽い音を立て、受話器が電話に戻された。

その音に気をとられて全員の視線が、受話器を見た。

ふと、嫌な予感がして凛は恐る恐る庭を見た。

アーチャーがうつ伏せで倒れていた。

「―っ!」
声にならない悲鳴が上がる。