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どんよりと曇った冬特有の気が滅入るような夕方、一台のタクシーが柳洞寺の麓の正門に隣接している駐車場前に止まっていた。
ほとんど日も落ちて急速に世界が藍色に包まれていく中で、黄色い光の点滅が存在を強烈に主張している。
半時もすれば真っ暗な闇に変わろうとする、逢魔が時の中で、タクシーのその光だけが現世への道しるべとなっていた。

メーター通りに客が代金を支払って降車する。ハザードをたいたまま、運転手は運転記録簿に行程と金額を書き込み、ゆっくりと発車した。
しばらく深山町を流していた運転手は、自動販売機の前で缶コーヒーを買おうとして車を止めた。
温かい車内から身も凍るような冷たい風の外に出て、いそいそと財布を取り出す。

「そういや、さっき何人乗せたっけか?」

財布を手に、ふと些細な疑問が浮かんだ。しばらく考えたが、どんな客を何人乗せたのか記憶が曖昧だった。
考え込みながら、半ば機械的にコーヒーのボタンを押す。
ガチャンとした音に我に帰った運転手は、取り出し口に出てきた、熱い缶をつまみながら車に戻った。
運転席で缶を開け、缶コーヒー特有の甘ったるい匂いを嗅いだ時には、些細な疑問を感じたことすら忘れていた。

「最近、景気悪いからなぁ……」

缶コーヒーをぐびりとやったあと、白髪の目立つ壮年の運転手は、黒い車体を走らせ始めた。
自分が運んだ客のことをすっかりと忘れて、タクシーが走っていく。


Chapter 33 愁然


「アーチャーはどうしました?」

柳洞寺への山道の下で完全武装のセイバーはふっと一行を振り返った。
凛と、イリヤに手を貸して支えるように歩いていた士郎が顔をあげる。凛が苦笑を交えた微妙な表情でセイバーを見つめた。

「上で待ってるって」
「……彼は本当にサーヴァントらしくありませんね、凛」
「まあね」

凛の回答に、セイバーは嘆息した。
昨夜の激闘、それも心臓をぱっくり割るような大怪我をしたはずなのに、いつの間にやら姿を消している黒衣のサーヴァント。
マスターであるはずの凛も繋ぎ止める愚を悟っているのか、あきらめているのか。苦笑じみた表情を浮かべるだけだった。

自らの死すらも傍観者の様に淡々としていたアーチャーの姿を思い出したセイバーは肩をすくめた。
未だかつてあれほどまでに人間離れした人間を見たことがない。見た目も、その性格も。
そして、その死んでいるアーチャーを蘇生させた白き医師。あまりにも強大な気配を持った存在も無視できなかった。
自分の正体を一目で看破した、とても侮るわけにはいかない存在もいつの間にやら姿を消していた。
衛宮家の庭で黒い沼に沈んで行った様な気がしないでもないが、それほどあっけなく消え去ることもないはず。
妙な確信がセイバーにはあった。
そういえば。とセイバーの思考が巡っていく。
アーチャーと旧知の間柄であることが垣間見えたことを考えると、あの医師はアーチャーの世界の人間ということになる。
であれば、即ち世界を渡ってきたことになる。
世界を渡る。そんなことができるのは……。

――”魔法使い”

ふっとセイバーの脳裏をそんな単語が掠めていった。自分の思考に愕然としたセイバーは慌てて凛を見つめた。
紅蓮の炎の様な自分のマスターも似たようなことを考えていたのか、難しい顔をしていた。
ふぅっとため息をついたセイバーが口の中で呟いた。

「しかし、アーチャーといい、あの医師といい。彼らのいる世界はいったいどうなっているのでしょうか」
「分からないわ。まあ、一つ言えることは、こんな状況でも、この世界がとっても平和ってことよ」
「……そうですか……」

セイバーの独り言のような呟きに、凛が答えた。苦渋に満ちた声に、思わずセイバーがはっとしたように凛を見つめる。
アーチャーの何を知っているのか? セイバーには分からなかったが、山道を見上げた凛の表情は、どこか安堵しているような雰囲気が漏れ出していた。
この状況ですら平和だと言い切れるほどアーチャーの世界は荒廃しているのだろうか? セイバーは暗鬱たる思いを抱えながら、凛の横顔をじっと見つめていた。
ふと凛の背後で白い妖精に手を貸す元のマスターが気になった。
イリヤスフィールは、遠坂家を出た後から急に体調が悪くなっていた。本人は”正常な魔力のあふれてる遠坂家から出たことで疲れがどっと出た”と言っていたが、小さな体に宿る魔力が不安定な所を考えても、かなり体調が悪いのは明白だった。
シロウはそんなイリヤを心底心配しているのだろう、事あるごとに手を差し伸べていた。
契約者は凛に代わっているとはいえ、セイバーにとって士郎はかけがえのない大事な存在、そして見ていてはらはらする存在でもあった。
少し遅れて、軽く息を切らしているイリヤの背中を、ゆっくりと撫でている士郎を軽く見つめた後、セイバーは思いを断ち切るように、山門を見上げた。

「……」

知らず全員の視線が、セイバーを追いかけて山道の上にある古ぼけた門の方向に向かった。そして柳洞寺が放つ異常なまでの気配を改めて認識し圧倒される。
誰も声を出すことができなかった。考えもつかないような異質な気配。堕ちた桜が放っていた黒い沼の様な影であってもこれほどまでに異質な気配は感じられなかった。
妖気、魔気。そういった言葉がその気配を示すのに似合っていた。
全身をシェイクされ、苦虫と毒草をすりつぶしたジュースを飲まされ、さらにそのまま胃を直接揉まれたような、吐き気という単語で表現することすらおこがましい様な気分が一行を襲う。
油断すれば逆流しそうな体を精神力で無理矢理抑え込む。
そんな状況もイリヤの体力を消費しているのだろう。ぐったりとするイリヤを、セイバーが近寄って抱きかかえた。
俺が背負う。と青い顔で主張する士郎を、凛が小突いて黙らせている光景が目の端に映る。

「……だけど案外あっさり着いたわね」
「どうしました?凛」
「いいえ、なんの障害もなかったなって思ったのよ」
「……確かに」

濃密なゼリーのような空間で、一同が硬直して彫像と化す中、沈黙を破るように青い顔の凛が重い口を開いた。
セイバーは気づかわしそうに、自分のマスターにゆっくりと顔を向けた。
ここまで来る間、そして今も絶えず周りを警戒している。しかし、途中の道も、そして今もセイバーの直勘は何も危険を告げていたなかった。タクシーに乗っている間も、そして降りる時も、いつでも襲撃しようとすればできたはず。
あと一人でもいい、サーヴァントを倒すことができれば、聖杯は満たされる。そうすればゾウケンの一派が聖杯を手にすることができる。しかし、攻撃してくる気配はみじんもなかった。
凛もセイバーもその静かさが不気味だった。
ただ、襲撃の予感はないが、これ以上先に進んではいけないと、本能はひっきりなしに警告の鐘を撃ちならしている。
その警鐘は柳洞寺に近づけば近づくほど大きくなっていた。

「まあ、罠を仕掛けてるのは分かり切ってるけどね、罠ごと破壊してやるわ」
「……さすがです」
「あ、なに? セイバー、その目は呆れてるんでしょ」
「いえいえ、とても凛らしいと」

気分が悪いはずだろうに、特に魔力といったものに敏感な魔術師であればあるほど、この場に満ちる気配に耐え切れそうにないだろうに、凛の目は鋭く光っていた。その覇気にあふれた目とゆるぎない自信にセイバーは、ふと恐れるものがなかった時代を思い出していた。
口を尖らせた凛の表情に苦笑を返す。

「で、どうするの?士郎」
「俺は、行く。行って桜を助ける」
「……」

やがて凛がくるりと後ろを振り返って、射抜くような視線で士郎を見つめる。
真っ向から受け止める士郎を見つめながら、最後の確認の言葉をかけた。
正直言って凛は士郎にここで引き返してもらいたかった。場合によっては最愛の妹を、そして士郎の想い人を処理する所を見せなければならない。さすがにその姿を士郎に見られるのは抵抗がある。
しかし、帰れと言っておとなしく士郎が帰るとも思えなかった。
最後の賭けだったが、やはり士郎の答えは変わらなかった。凛は心の中で大きくため息をついた。

――やっぱり、こうなっちゃうか。

士郎は桜を選んだ。迷いもなく、確固たる信念を持って桜を選んだ。これで、どう転んだとしても、士郎との微妙な関係は終わったと。凛は心の中でつぶやいた。
穏やかな、人としての優しい関係の終焉が目の前に迫っている。そのあとに待っているのは苛烈な魔術師としての関係。
管理者としての価値観に基づいて責任を果たそうとする自分と、最愛の人を人として助けようとする士郎。
できれば、衝突はしたくなかった。

「俺はあれは桜じゃないと思う、操られているか乗り移られているのか分からないけど。あれは桜であって桜じゃない。だから俺は桜を助ける」

何か心のどこかの柔らかいところが凍っていくような感覚とともに、微かな寂寥感が凛の心を流れていく。
そんな凛の気持ちを知ってか知らずか、士郎は山門を見上げて、自分の迷いに満ちた心に言い聞かせるように語った。
士郎の言葉を聞いた凛は、目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
その過程で凛は変わる。同級生の遠坂凛から魔術師の遠坂凛へと。
見開いた凛の硬質の光を灯す瞳に士郎が映る。
感情が硬化した様な凛の視線を、士郎はまっすぐに受け止めた。しばらくして、口を開いた凛は、柔らかさをそぎ落としたような口調で士郎に告げる。

「……そう。わかったわ。でも私の邪魔をしたら、その時は士郎。あなたでも処理の対象にするわ」
「凛!」
「セイバー。黙って。これは私の役目なの」
「……わかった。邪魔はしない」
「そう。ならいいわ」

凛の敵対宣言ともとれるような言葉にセイバーが目を剥いた。しかし、そんな銀と青の精霊じみた少女を見つめた凛は、鋼の様な芯の通った声で意思を押し通す。それは冬木の管理者としての遠坂の当主としての強烈な責任感だった。
その雰囲気に、さすがのセイバーも押し黙った。
士郎はそんな二人の様子をじっと見つめた後、軽く頭を振った。
何かを追い出すかのような、苦渋に満ちた表情で山門を再び見つめる。だがその顔は強い決意に満ち溢れていた。
紡ぎ出された言葉とは裏腹に、その目は何があっても桜を助けると雄弁に語っている。それを感じた凛は、心の中でだけ微笑みを浮かべた。
自分ができないことを、士郎がしてくれる。この地を管理する魔術師としての生き方を取らないといけない自分に代わって桜を最後まで守ろうとしてくれる。信じてくれている。唯一の肉親としての凛はそれに感謝していた。

「ところで士郎? 本当にいいの?」
「ああ、俺にはアサシンの刀があるから、それは遠坂が持っててくれ。もともと遠坂のだしな」
「まあ、確かに、軽いから私向きと言えばそうなんだけど」

不意に口調を明るく変えた凛の言葉に、その場の雰囲気が少し和らいだ。
士郎の言葉に、凛はずっと小脇に抱えていた細長い布包みを解いた。衣ずれの音がして、流麗かつ古代ルーン文字がびっしりと刻み込まれた、細身の剣が凛の手に現れる。
アーチャーが持ち帰ってきた時はそうでもなかったが、今は刀身が微かに輝いている。
セイバーも士郎も凛が捧げ持っているその剣に一瞬目を取られる。士郎の解析すら寄せ付けないその剣は、ギルガメッシュの宝物庫に格納されていただけに、相当な宝具だった。
未だに効果のほどはわからないが、力強い武器になってくれるはずだ。と凛が持参していた。
遥か昔に、兄弟子に剣の使い方をレクチャーされたことはあるが、実際に剣を持って戦うことはない。だから士郎に貸してあげようと考え、もう一度士郎に尋ねたが、士郎はゆっくりと首を振った。
確かに士郎は規格外の投影魔術を持っている。その魔術でアサシンの剣を作り出して戦うことができる。
治療自体は記憶にないらしいが、メフィストという名前の白い医師の治療の後は、驚くほど簡単に作れるようになった。と言っていた。針金を埋め込んで神経の代わりをすると言う、今までに見たことすらない魔術だったが、士郎の魔術回路と埋め込まれた針金が相互作用を起こしているのかもしれない。
だが、今はそんな埒もないことを考えている時ではない。今は目の前の戦争を終わらせること。そして桜を……。
凛は両手でぴしゃりと頬を叩いて気合いを入れなおすと、厳しい表情のままゆっくりと古びた石の階段に足をかけた。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか、後戻りはできないわよ」


-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

凛たちはイリヤスフィールを士郎に預けなおしたセイバーを先頭に、警戒しながら山道をゆっくりと上がった。一歩階段を上がるにつれて、のしかかってくるような異様な気配が濃くなっていく。
足を踏み出すごとに襲ってくる、嫌悪感と嘔吐感を抑えながら、ようやく山門にまで上り詰めた。そして山門から見える柳洞寺の境内は下から思っていた以上に異様な雰囲気に包まれていた。
山道を上る過程で、異様な気配にもさすがに慣れてきていたが、源流に近い場所は圧倒的だった。

「うっ」
「これは」
「気持ち悪い……」

霊的なもの、魔的なものに対する知覚力が薄い一般人であれば、寂れ切って、なんとなくうすら寒い神社の廃墟と映るだろう。だが、凛たちの目には、そしてセイバーには分かった。
もともと結界によって切り離された感があるような柳洞寺ではあったが、今の柳洞寺は異界だった。この世の理が捻じ曲げられているような空気に満ち溢れ、風の音が世界の悲鳴を伝えてくる。そして醜悪な気配がこの場を制圧していた。

ただ、その一角に、この世のものとは思えない美しい黒い影が強烈に存在を主張していた。

アーチャーがそこにいた。

境内の真ん中で、アーチャーはいつものように茫洋とした表情のまま遠くの空を見つめて立っていた。
愁いに満ちているような、空虚さに包まれたような黒衣のコート姿は、汚濁の海の中に湧き出る泉のように、そこだけが世界から切り離されていた。いや、そこだけが一つの世界と化している。

「アーチャー……」

凛のつぶやきと同時に、ふっとアーチャーの顔が向いた。いつものアーチャーだった。

夜の海でぽつんと立っている灯台を見つけた漁船のように、どんな状況でも何も変わらない自らのサーヴァントを前に凛はほっと息を吐く。
同時に、自分がアーチャーの顔をみて安心していることに気がついて、慌てて頭を振った。
アーチャーも、この異常な聖杯戦争が終わればいなくなるだろう。
そんな不安定な誰かに、僅かでも依存するわけにはいかない。私は遠坂の後継者として、遠坂家の当主として、この地の管理者として立たなければならない。
もともと魔術師は己の力と自負によって立っている。そんな私自身が強くならなければ。
目の前の、天使か悪魔か、月光の刀に丹念に削られた水の結晶のような顔を前に、ともすれば意識が引き込まれそうになりながらも、凛は必死に自己暗示をしていた。

「……しかし、ひどい有様です」
「……まあねぇ、さて、イリヤ分かる?」
「こっち」
「アーチャー……」
「洞窟がある」

アーチャーがいるので危険はないのだろうと思いながらも、凛たちは警戒を崩さずに境内に足を踏み入れた。
とたんに山門の外に数倍する圧迫感に押し包まれる。
セイバーが崩れ落ちた社に荒廃しきった境内の惨状を見つめた。
現状の一端を自分が招いていると心を粗い目のヤスリで削られたように沈痛な面持ちで、ぽつりとつぶやいた。
士郎に背負われているイリヤに問いかけた凛だったが、イリヤの回答よりも早く、横合いからのんびりとした声が差し込まれた。
あっけにとられた全員の視線を背に浴びながら、漆黒のコート姿のサーヴァントは答えを待たずに社の裏手の山の方に歩きだしていた。

「……アーチャーについていって」

顔を見合わせた一同だが、イリヤの掠れるような声に慌ててアーチャーの後を追いかけた。

山道を抜け、森をたどり柳洞寺が見下ろせる山の中腹の小さな広場でアーチャーの足が止まった。
巨大な岩が折り重なるように絶壁を作り上げ、その隙間に人一人が入れるほどの小さな隙間ができている。そして、その間から清水がわき出して小さな小川を描き出していた。

「ここね」
「そうよ、リン」
「見た目だけ言えば、見事に隠してるわね」

昔の士郎や、一般の人間には何の変哲もないただの景色にしか見えないが、凛やセイバーの目は違った。
ここまで近寄れば、隙間の奥から漏れ出してくる半ば物質化するような異質な魔力の気配は隠せるはずもなかった。
士郎ですら、この場の異常に息を飲む。

「そう、じゃあ、セイバー先頭で私、イリヤと士郎、アーチャーの順でいいわね」

硬い表情で一同を見渡した凛は、小石を並べて隊列を示した。今のメンバーであれば、誰が考えてもそうなる隊形だったがイリヤだけが異議をあげた。

「ちょっと待って、リン。私はここで待ってるわ。今の私はみんなの足手まといになるだけだし」
「イリヤ? 大丈夫か?」
「だいじょうぶよ、ちょっと疲れただけ。しばらく横になってたら落ち着くと思うから。落ち着いたらお家に帰るから」
「そうか、だったらいいけど」
「……わかったわ」

士郎の背から降りたイリヤは、テーブルのような平たい岩の上に、ぎこちなく座った。
言われてみればイリヤの表情は険しく、額の汗に髪が張り付いていて、かなり疲れた状況なのが士郎にも見て取れた。
士郎は寒そうに震えたイリヤに、自分が来ていたダウンジャケットを羽織らせて、小さな額の汗を拭いた。
その様子を見ていた凛だが、何かを感じたのか感情を消した声で了承した。
イリヤは必死に隠そうとしている裏の凛の心の機微に気がついて、くすっと笑みを浮かべた。魔術師として希有の実力を有しながらも、人間を捨てていない凛は、やっぱり凛らしいと。そこらの魔術師の十倍する才能を誇りながら魔術師らしくないと、おかしくなった。
イリヤの微笑と反比例するような生命反応の低下にセイバーも事態を理解した。理解せざるを得なかった。
きっちりと結わえあげた金砂の髪を、かすかに振って、堅い表情を隠すようにそっと背を向ける。

「勝ってね。シロウ」
「ああ、桜を助けて帰ってくるからそこで待っててくれ」
「うん。待ってる」

士郎に汗を拭かれて、ジャケットをぎゅっと握りしめたイリヤは、にこにこと微笑を士郎に向けた。目を覆う包帯が痛々しいが、士郎はゆっくりとイリヤの髪を撫でて立ち上がった。

「……じゃあ、行くわよ」
「……シロウ、リン。勝ってね」
「おうっ」
「絶対よ」

凛が何かを断ち切るように踵を返して洞窟に向かう。痛々しそうな視線を一瞬だけイリヤに向けたセイバーも軽く眼をつぶって何事かをつぶやいた後、凛の後を追う。
士郎の手を取って自分の頬に当て、なけなしの魔力を振り絞って士郎の無事を願ったイリヤがゆっくりと手を離した。

士郎が心配そうに何度も振り返りながら洞窟に向かっていくのを感じる。そんな優しい士郎に大丈夫と笑顔で手を振って送り出す。
やがて全員の気配が感じられなくなるまで手を振っていたイリヤが、糸の切れた人形のように唐突に崩れ落ちた。

「……はぁはぁ」

先ほどの笑顔から一転して苦しそうな表情になったイリヤは、士郎の温もりと匂いの残るダウンジャケットを、がくがくと震える手で何とか握りしめる。
自分には分かっていた。自分のことは自分が一番分かっていた。

「さす……が……アイン……ツ……ベルン……」

寿命がそう長くはないとはわかっていたが、これほどまでに一気に劣化するとは思ってもみなかった。
自分の身が急速に生気を失っていくのを感じ、イリヤは苦笑を浮かべた。
聖杯戦争のためだけに生み出した生は聖杯戦争と共に朽ちていく。アインツベルンの魔術の結晶でもある自分はきっちりと寿命を計算されて生まれてきた。しかし、アインツベルンの性なのか、肝心なところが抜けている。
自嘲の言葉が声にならない声を上げる。

「まだ……おわ……ってないの……に……」

悲鳴のような風の合奏がイリヤの耳に鳴り響く。
だが、すでにイリヤにはもう、何も聞こえていなかった。
イリヤの脳裏では、ほんの数日のほんの数時間だけだが笑って過ごした衛宮家の記憶がリフレインしていた。
もともと聖杯戦争の為に生み出された短い一生の中で、温かい家で過ごした時間は少女の珠玉の記憶だった。
全身に及ぶ巨大な令呪でしか縛ることができないような、強力極まりないサーヴァントを従えて参加したが、イレギュラーなサーヴァントに打ち破られ、そして深刻な傷を負った。
アーチャーに救われていなければ、とうの昔に朽ち果てていた身だった。
士郎との交流の課程で、いつの間にかアインツベルンの深い森の中で燻っていた過去の思いも霧散していた。
結果的に士郎の元に身を寄せた自分は、”父”の”子”である士郎に悲しい思いをさせたくない。という人間の様な一心でのみ命を永らえてきていた。
ふと、自分の心の変遷がおかしくなる。あれほどまでに焦がれていた葛藤はいつの間にか昇華され、暖かい家庭で過ごした楽しい記憶だけが残っている。
その意味で言うと、最後にあんな楽しい記憶を残せるように助けてくれたアーチャーに感謝もしている。
ひょっとしたら、このまま生きていけるかも。と淡い希望も抱いたが、泡沫の夢と化した。
聖杯戦争が、そして柳洞寺の異様な気配が、なけなしの気力をどんどんと削り取っていた。

「こんな……に……楽しい……ん……だった……ら、……もう少……し、……生き……たかった……な……」

ダウンジャケットに残る士郎の温もりに包まれたイリヤは、横になったまま、ゆっくりと苦笑じみた微笑みを浮かべる。
既に口も、まともに動かなくなっている。

記憶の中では、しかめっ面をしているセイバーと怖い顔のリン。顔は分からないけど、とっても優しい士郎のお姉さんのタイガ。一緒にお風呂入ったっけ。そして困った顔で、でも笑っている士郎の顔が浮かんでいた。
魔術師の、それも、ホムンクルスとして生まれてきた自分が、普通の家族のように過ごした短い時間。
希望なんて考えたこともなかった自分だったが、光にあふれたその記憶は、初めて、”生きたい。もっと生きていたい”と強烈に訴えかけていた。

――でも、もうだめ。

――自分の寿命はもうない。

徐々に意識が混沌としていく。

だんだん、闇が意識の大半を占めていく。

「なんで、……こ……ん………………」

薄暗い曇天の下でも明らかに分かるほど震えながら、ギュッとダウンジャケットを握りしめていた小さい手が、動きを止めた。

ゆっくりと離れていく。

岩の上に大の字に投げ出された人形のような姿に、静かに白い粉のような雪が舞い降りる。

もう、白い小さな体は動くことがない。
ただ銀色の髪が風に揺られていた。


不意に白い影がはためき、岩を白く染め上げる。


後にはただ、悠久の時間を刻み込んだ岩だけが残った。

粉雪が舞い踊っていく。


-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-


「どうせ、もう分かってるだろうし、いきなり闇打ちされるかもしれないから、十分注意して」
「お、おう」

凛の注意とともに洞窟に突入した。
洞窟の入り口からしばらくの間は急な下りで構成されていた。真っ暗な中でロッククライミングをしているような気分に、誰も口を開かずに降りていった。ただ、アーチャーだけは素知らぬ顔をして、手すら動かさずに、見えないエレベーターに乗っているかのごとく降りていく。
何百メートル降りたのか、意外と何十メートルで納まっているのか、感覚すら摩耗するような闇の中、やがて平坦な通路に行き着いた。
そこはヒカリゴケでも生えているのか、洞窟はほんのり照らされていた。闇に目が慣れた凛たちには微かな燐光でも十分な明かりだった。
全員が降り立ったのを確認して凛は洞窟の奥を見つめる。微かに輪郭が見える洞窟は遥か彼方までつながっているように感じられた。

「誰も出てこないわね」
「相手方も戦力の小出しは控えてるんじゃないでしょうか?」
「ってことは、いきなり総力戦?」
「兵力の集中は戦争の基本ですから、我々相手に個別に出てくる愚か者はいないと言うことでしょう」

通路に降りてしばらく、辺りを警戒してじっと立ち止って様子をうかがってみたが、殺気などは何も感じなかった。
凛の呟きに、セイバーが顔を寄せてくる。
彼女の言うことも、もっともな話なので、そうかもしれないと凛はうなずいた。
敵の気配はなかったが、その場に満ち溢れる濃密な魔の空気は、一行の緊張を最大限に高めていた。
生命に満ち溢れる活気とともに、流れ出るゼリーの様に濃密な異様な魔力。そしてそれを複雑に織り込むような人外の気配。
固い顔で頷き合った一行は自分達の得物をいつでも抜けるように準備した。
セイバーは自分の聖剣を抜き放ち、凛は名もなき剣を片手に宝石を握りしめ、士郎はアサシンの剣を投影する。
そしてアーチャーは、アーチャーだけは自分は関係ないとばかりに、のんびりと立ちつくしていた。

セイバーを先頭に進んでいくと、やがてぽっかりと開いた大きな空洞に差し掛かった。

「凛!」

セイバーの緊迫した声が響き、緊張が稲光のように迸る。セイバーが一歩前に出て剣を構えた。既に清冽な銀の鎧を身にまとっている。

「とうとう来てしまいましたね。いえ、やっと来てくれましたね。と言うべきでしょうか」

闇の奥からゆっくりと気配が近づき、固いライダーの声が響く。その声は敵対する者の声とはとても思えず、何か懇願するような響きが込められていた。
だが、しかし、一同の前に現れたライダーの手に握られた釘剣は、その雰囲気とは裏腹にしっかりとセイバーに向かっていた。
しばらく対峙していたライダーだが、じゃらりと手に持った釘剣の鎖を鳴らしてすっと道を開ける。
聖剣を引き抜いて、いつでも迎え撃つ態勢をとっていたセイバーは相手の行動に訝しい視線を向ける。
意表をついた動きで相手を翻弄するライダーの戦い方は熟知しているので、目の前の行動でライダーの戦意がないとは判断できなかった。
何時、ライダーが神速の動きで飛びかかってきても迎撃できるように全身の神経を尖らせ、聖剣の切っ先をライダーから離さない。

「ライダー、何の真似ですか」
「サクラの言いつけです。サーヴァントを通すなと言われていますが、人間を通すなとは言われていません」

その言葉を聞いた凛は、セイバーの咎めるような視線を受けつつもゆっくりと歩を進めた。

「……へぇ。じゃあ、私と士郎は通ってもいいのかしら?」
「繰り返しますが、あなた方を通すな。という命令は受けていません」

セイバーから凛へ、顔の半分を占める巨大な眼帯に隠されつつも、ライダーの視線が動く。ライダーは凛の問いかけに、感情の見えない口調に戻って淡々と答えた。

「任務に忠実なのね。だけど、ライダー。あなたは一人でセイバーとアーチャーの相手をするつもり?」

ライダーが強いのは分かっている、それこそセイバーとまともに打ち合うことが出来るほど。とはいっても、これだけ狭い空間ではライダー特有の大きな動きよりもセイバーの剣技の方に分があるのは確実で、さらに言うとアーチャーもいる。
単純に通さない。ということすら出来ない筈。凛の言葉にライダーはあっさりと肯定した。

「確かに一人では無理でしょう」
「だったら」
「ですが、私は一人ではありません」
「――ッ!?」

ライダーの言葉と同時に、気配を感じた凛が後ろに飛びずさる。そして、ライダーの後ろに生まれた黒い沼からゆっくりと一人の野獣じみた男が滲み出てきた。
それは昨日の深夜にアーチャーと激闘を繰り広げ、最終的には倒されたランサーその人だった。

「節操がないね」
「まあ、そう言うな。宮仕えの悲しい性だ」
「君が人に仕えるなんて、過分にして聞いたことがないけど? 意趣返し?」
「へっ」

アーチャーのあきれたような呟きに、自嘲じみた声音のランサーが槍を肩に担いで頬を掻いた。
飄々とした雰囲気は、昨日と似たようなものだったが、闇のせいなのか、この場の独特の魔気のせいなのか、全体的にどす黒い気配を漂わせていた。
倒したはずの敵。それも目の前で消滅していったサーヴァントが、立ちふさがってくる状況に凛は強烈な違和感を感じた。
負けたサーヴァントは聖杯に回収されるはず。だったらなぜ?
そこまで考えた凛は唐突に思いついた。聖杯であれば回収した魂を使うこともできるかもしれない。と。
だとすると、目の前のサーヴァントは、ランサーのマスターは……聖杯。
即ち、桜。

「まさかっ」
「凛! 士郎! 下がって」

さすがにこの状況では、セイバーとて本気を出さねば前に進めないと感じたのか、臨戦態勢を取って魔力を高めていく。
呼応するかのようにランサーが目を細めて槍を構え、ライダーが大きく後ろに飛びずさって、大地に這うような構えを取る。
一触即発の場を止めたのは士郎の声だった。

「まってくれ、セイバー」

その声に、一瞬だけ注意を向けたが、セイバーは口を開かなかった。
今の緊迫した状況で、少しでも隙を見せると、ダムに開いた小さな穴のように、一瞬で崩壊を呼び込むことになる。
サーヴァント達の闘気で火花が散るような状況の中で、士郎は焦燥したような表情でライダーとランサーを見つめた。

「ライダー、俺と遠坂は通っていいんだな? ランサーも同じか?」

士郎の声に、ライダーはゆっくりと構えを解き、ランサーも槍を肩に担ぎなおした。

「少なくとも、私はあなた方を通すな。殺せ。という命令は受けていません」
「まー、俺もそういうのは聞いてないな」

二人のサーヴァントの答えを聞いた士郎は頷いて、構えを解いた。
ライダーの言葉は言外に、早く桜を助けて。と士郎には響いた。士郎はじっとライダーを見つめた。
眼帯をしたままでも視線を感じたのか、ライダーも士郎に顔を向ける。ライダーの焦燥を感じた士郎は、ふぅと息を吐き出した後、ゆっくりと歩き出す。

「ちょ、ちょっと士郎!」
「わかった、じゃあ、俺は行く」
「シロウ! だめです!」

凛は士郎の言葉に目を剥いた。凛からみると、敵サーヴァントの元へ近寄るなど自殺行為にしか見えなかった。
言葉では何と言っても、目の前のサーヴァントがこれほど狭いところで力を発揮すれば、凛ですら一瞬で命を奪われるだろう。そんな状況下において士郎の決断と行為は自殺行為にしか考えられなかった。
だが、口を堅く引き結んだ士郎はライダーの言葉を信じていた。
セイバーが慌てて制止しようとしたが、士郎の歩みが止まることはなかった。

――俺は桜を信じる。

――桜は助けてもらいたがっている。

――手を差し伸べてほしがっている。

――桜が泣いている。

――だから、だから、俺は何があっても桜を助ける。

一歩踏み出す毎に、大地を踏みしめる毎に、そして異様な気配が強まるに従って、士郎の信念は固く、鋭く研ぎ澄まされていく。
迷いを捨て、悩みを捨てた士郎は、一歩、また一歩と歩を進めていった。

紫の髪の美しいサーヴァントは、ゆっくりと近づく士郎を前にそっと道を空けた。

サクラを助けてください。と