凪の様子がおかしい。一刀がそれに気がついたのは、この二週間ほどのことだろうか。
一刀は隣を歩く凪の様子を横目にそっと伺う。

何か悩みでもあるのか、時折、焦点の合わない目で呆けた様に考え事をしている事がある。かと思うと、一刀の
ことを怒ったような表情で見つめたりする。
が、一刀が目を合わせようとするとふいっと視線を外す。
後頭部にちりちりと錐で刺されるような視線を向けられた一刀は『俺は何か悪いことをしたのか?』と、
ここ一週間ばかりの行動を真剣に思い出したりしていた。が、凪が怒るような事をした記憶はなかった。
比較的、というか思いっきり鈍感な一刀ですら違和感を感じるような、いつもと違う凪ではあるが、それでいて、
不審者を見つけたり、喧嘩が始まる時は、流れるような動きで真っ先に駆けつけるので、心配はしながらも
しばらく様子を見ていた。

霞と宴会をした翌日、二日酔いに軋む頭を振りながら、当番の凪と連れだって警邏に出た一刀だったが、
落ち着き無く、そわそわと視線を飛ばしたり、ぼーっと考え事をする凪が流石に気になった。

店先に置いてある箱につまずく。
道を間違えて呆然とする。
人とぶつかる。

確かに最近は人口も増えて街も賑やかになった。市場や屋台広場等は、活気というより喧噪に包まれている。
だが、武の達人でもある凪が人とぶつかるなんて、今まで到底考えられなかった事だ。

「凪?」
「……」

一刀が心ここにあらずといった表情の凪に声をかけた。だが、凪は聞こえなかったのか、焦点の微妙に合っていない
視線をあちこちに飛ばしていた。たぶん、無意識のうちに警邏をしているのだろう。そんなところに根っからの
生真面目さが現れている。
一刀は、軽く溜息をついて、頭をガシガシとかいた。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

「……、…ぎ、なーぎっ! 凪? どうした?」
「……」
「凪!」
「ひゃっ」
「だ、大丈夫か? 凪」
「え、ひゃっ、は、はい! 隊長! 大丈夫ですっ!」

どこか遠くで自分の名前を呼んでいる……と意識のどこかが囁いた。ゆっくりと意識が思索の迷路から浮かび
上がってくる。と思ったら目の前に隊長の心配そうな顔があった。それもちょっと顔を動かせばせ、せ、せ、せ、
接吻出来そうなほどの至近距離で。
そう意識した途端、視線が隊長の唇に吸い寄せられていく。それと同時にふらっと体が……。
だが、その夢うつつのような意識を隊長の声が再び呼び戻した。
私はいったい何をしようとしていたのか?
胸の奥の渇望が、いや、欲望がそのままに湧き出ていたのか? 思わず隊長に接吻しようとしていた現実に、
一瞬で全身が、そして何よりも顔が、かっと熱くなった。胸の鼓動が全身を殴打するように響く。
たぶん、今の私の顔は唐辛子のように真っ赤だろう。そんな顔を見られたくなくてあわてて、身を離す。
あまりにも恥ずかしくて、隊長の顔が直視できない。
一瞬走り去ろうかと思ったが、心のどこかで今は警邏中とのささやきが聞こえ、なんとか自制した。
どうしようもなく、いたたまれず。うつむき加減で顔を隠す。
気が付かれただろうか? そっと隊長の表情を窺う。
隊長は困ったように笑っていた。

「どうした、ぼーっとしてたぞ? 風邪でも引いてるのか?」
「いえっ! なんでもありませんっ! 少し考え事をしていましたっ! 申し訳ありません!」

ふと我に返った。一体、いま自分は何をしている? 警邏だ。警邏の途中だ。大事な私の任務だ。
なのに、自分は一体、何をしている? 自分の感情に振り回され、挙句の果ては欲望に我を失いかけ、隊長に
失礼極まりない態度を取っている。
そんな私を隊長はどう思うだろうか? あきれ果てるに違いない。
高鳴っていた胸の鼓動も、火照っていた顔も一瞬で凍りついた。 自分の任務もまともにこなすこともできない
無責任な人間が隊長の横に並び立つなど許されない。そもそも魏の将として失格だ。
高揚していた気分が一瞬で奈落に突き落とされていく。
だめだだめだだめだっ! こんな浮ついていたらだめだ。このままだったら隊長に見放される。
私は誰だ? 私は樂進文謙、魏の切り込み隊長。その私がこんなに浮ついていてはいけない。
頭を強く振って、両頬をぴしりと両手で叩きつけ、表情を引き締めて顔を上げる。自然と背筋が伸びる。
それでも、隊長の顔を改めて見返したとき、心が一瞬揺れた。必死にその揺れを抑え込む。

「そ、そっか、ならいいけど。 ……でもまあ、無理するなよ。凪がいないと俺は困るからな」

隊長は心配そうな表情を浮かべたが、微笑んだ後、ふっと目を細めた。
その表情がなんかいいな。と思わず見とれた。だからかも知れない。
あまりに自然だったので、対応できなかった。気がつけば隊長の手が、私の髪を梳いていた。
そのことを意識した瞬間、全身が硬直する。必死に抑えた心が暴れ始める。

「ッ!!?」
「あ、びっくりしたか? ごめんごめん」
「た、隊長!」
「はははっ。じゃあ凪。警邏の続きだ」
「隊長……」

私の頭をくしゃくしゃっとかき混ぜた隊長は笑って歩き出した。
その背を見送ったあと、ゆっくりと頭に手をやる。

……温かい、そして想像以上に大きな手だった。まるで、私をすっぽりと包み込むような。

「凪がいないと困る……って……」

隊長の言葉が繰り返し頭の中に響く、自然と頬がゆるんでいくのを必死で押さえて、あわてて駈け出した。


    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇


「よーし、今日も一日無事終了。大事件は無しっと」
「はい」
「北郷隊長! 樂進副隊長! 御苦労さまでした!」
「あと、よろしく頼むよ」
「はっ!」
「よし、帰るか。今日の仕事終わりっ!」

空が茜色と藍色の間で一進一退の攻防を繰り広げている頃、警邏隊の隊舎では、一刀と凪が夜番の警邏隊員達と
引き継ぎを行っていた。
特に大きな問題もなく、引き継ぎ自体はあっさりと終わった。
ひとしきり隊員たちと戯れの会話を繰り広げていた一刀は、凪と連れだって隊舎を後にした。
活気のある屋台や店をいろいろと冷やかしながら、帰路に就く。
警邏隊の隊長さん。ということで、庶民の間で結構な人気を誇る一刀の後ろを、凪が無表情な中にも幸せそうな
笑みを浮かべながら歩いて行く。

馴染みの屋台の店主と、笑いながら話している隊長は本当に楽しそうに見える。
本当であればこんな場所に出てくることなどあり得ない程、立場の高い方のはずなのだが、その親しみやすい
雰囲気や、民のことを真剣に考えている姿を見ていると、華琳さまとは別の方向から民のことを愛している人な
のだな。と思う。
華琳さまのように高いところから民のことを考える人と、隊長のように民と同じ目線に立って民のことを考える人が
同時に君主と天の御使いとして君臨するこの魏という国は本当に恵まれている。その中に一翼として力添えが
出来ると言うことはなんと素晴らしいことか。
そんなことをぼぅっと考えていると、隊長が私に肉饅を押し付けてきた。「い、いえ。警邏中ですから」と
思わず口走ると、「もう警邏は終わってるし、今は凪とデート中だぞ」と笑いながら返された。”でえと”なる
天の言葉が何を意味するのかよくわからず、反応に困っていたが手に持った肉饅から漂う美味しそうな香りに
抗えなかった。「温かい間に食べるのが礼儀だぞ」と言われ、思わず納得した。

そっか、今は警邏じゃないんだ。魏の将軍の樂進じゃなくて、ただの凪でいいんだ……。
そう思うと、心がふわっと軽くなった。
手にした肉饅がほっこりと温もりが伝わってくる。

『あ、あかん、凪! 凪は固すぎる!』

一刀と他愛もない会話をしながら肉饅を口に運んでいる凪の脳裏に、不意に昨日の霞との会話がよみがえった。

(固い……ですか)

確かに霞さまの言うことは当たってるかも知れない。
今日だけでも思い当たる節はいくらでもあった。でも、そんなに簡単に性格なんて変えようがない。
私はそんなに堅物なのか、と幾分気落ちしながら、今度はまた別の屋台の女店主にひっつかまった隊長を見つめる。

「ええ、ほら、隊長さん。お連れの楽進将軍にどうです?」
「ちょ、ちょっとまてって」
「お似合いですよ。どうですか、ほら」
「いや、なあ、でもなぁ、いや、確かに似合うだろうけど、俺から贈って喜ぶかなぁ」
「何言ってるんですかっ、あんなにわかりやすい態度ですのに。楽進将軍も憎からず思っておりますよ」
「そ、そうかな、じゃあ、お願いしようかな」
「ええ、明日には出来上がってますから」

凪は一刀と女店主の会話をどこか遠くの方の音楽のように聞き流しながら、霞の指摘を思い出していた。

(霞さまはなんて言ってたっけ……、えーと……『凪も四の五の考えずに甘えたらええねん。一刀に好きや〜って、
自分の気持ちを正直に言ってしまえばええねん』って……。
素直にって事は……、かずとさま、好きです。って……。
むりっ!無理っ!無理っ!無理っ!ぜぇったい無理、そんなことがあっさり言えれば、とうの昔に……、それに
隊長には……華琳さまとか……)

そう考えていると折り重なるように霞の言葉が沸いてくる。

『凪は自分から壁つくっとる。自分から手が届かへんって勝手に思い込んでる。だからや、だから変に気ぃまわして、
考えすぎになってるねん。いっぺん”かずと”って呼んでみ』

凪ははっと顔を上げる。

(そう、名前を呼ぶくらいは、なんとか私でも……練習もしたし……)

隊長が捕まっていた屋台から抜け出してきた。何故か屋台の方を見て苦笑いを浮かべていたが、ふっと私の方を、
というより私の手元を見て『肉饅冷えてるぞ?』と笑う。慌てて手元見ると知らない間に力が入っていたのか
肉饅が潰されて冷えていた。
急いで肉饅を頬張る。
この空気が好きだった。隊長と一緒に居る時に流れる時間が好きだった。この殺伐とした、行き急ぐ人々の中で
ゆったりと、”今”を見つめる隊長の姿。その姿が、ただ嬉しかった。
遅くなってごめんな。と笑う隊長を見た時に、心が溢れた。思わず口走ってしまう。

「……か」
「ん? なに?」

歩き出そうとしていた隊長が、振り返って私を見つめる。

それで我に返った。
あ、駄目。緊張する。顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。いや、でも霞さまが練習に付き合ってくれた。
その成果をここで出す。
よし!

「……か」
「か?」
「かかかかかかかかかかかか」
「お、おい、凪?」
「かかか、火事になったら、大変ですね! 乾燥してますしっ! 火計でもされたら……」
「火計って……でも言われてみたら確かに。最近雨も降ってないし。火の用心か。うん華琳に言ってみるか」
「……そうですね」

……へたれた。肝心なところで、へたれてしまった

だめだった。

とても言えなかった。

あまりにも支離滅裂な言葉に、顔から火が出そうなほど熱くなる。思わずその場で蹲ってしまいそうになった。

隊長は軽く首を傾げていたが、ふっと空を見上げると。納得したように頷いた。
町火消しがどうのと、呟く隊長は私の言葉を進言と受け取ってくれたのか、それとも何か天の知識を思い出したのか、
さんきゅと言って微笑んでくれた。たしか天の言葉でありがとう。だったっけ。
私は内心の動揺を隠すために、無表情に徹するしかなかった。

やがて篝火に煌々と照らされた城門が見え始めた。
あの門を潜ると、隊長と一緒に居られるかどうか分からない。門の中には隊長の事をいまかいまかと待ち構える
人達が沢山いる。
”私の隊長”であるのももう少しだけ。
この幸せな時間も、隊長を独り占め出来る時間も、あと僅か。

だから……。だから、私はもう一度、もう一度だけ勇気を振り絞ってみた。

「か」
「?」
「かかかかかっかかかか」
「凪?」
「かかか、かずっ、かずっ、数が足らないと思いませんかっ! 警邏のっ!」
「そ、そ、そうか? それほど治安は悪くないように思うんだけど……」
「い、いえ、街の住人も、増えてきましたし、流れてきた人間も多いですから」
「言われてみればそうだな」

……
……
……
やっぱり、無理だった。どうしても自然に名前を呼ぶことが出来なかった。
出だしで躓いてしまったら最後、意識だけが先走って空回りしてしまう。戦闘ならば、自由自在に動かせる体も、
こと隊長を前にすると舞い上がってしまって、思い通りにならない。
なんと情けない。自分が情けなくて、まともに気持ちを出すことも出来なくて悔しくて。
感情を素のままに表す霞さまや春蘭さまが、今ほど羨ましく思ったことはない。

「凪? どうした? 今日は変だぞ?」
「……いえ、なんでもありません」

挙げ句の果てに、隊長に変な奴と思われてしまった。その事実に気分が挫けていく。私は必死に表情を整え、
掠れるような声を出すだけしか出来なかった。

城門をくぐって、中庭に差し掛かった時、隊長がふと思い出した様に、私に向き直った。
灯籠の明かりに照らされた隊長はどことなく厳しい目つきだった。私にはそう見えた。
咄嗟に、今日のふがいない私に対して叱責されるのかと思ったら、予想外の言葉が聞こえた。

「そうだ、凪、明日は非番だったよな」
「は、はい」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれるか?」

……は?

……誰が?

私が?

……誰と?

隊長と?

……え?

え?

ええええええええええええええええええええええええええええええっ?

「つ、つつつつつつ付き合って?」
「いや、そこまで驚かなくても……買い物なんだけど」

……なんだ、……そう。やっぱり、そんなに都合良くは……。

「は、はあ。それは構いませんが、何を?」
「いや、非番の時に香辛料を買ってこいって華琳に言われてるんだけど、さっぱりでさ。凪なら、よく知ってる
だろう? それと……いや。なんでもない」
「はぁ、食材なら、私より流琉の方が向いてるような気がしますが」
「ああ、流琉は春蘭と一緒に巡察に出てるのもあるし、凪でないと……」
「? 分かりました。じゃあ、お供させていただきます」

隊長が言い淀んだ所は少し気になるけど、それでも、隊長と二人で出かけるのは嬉しい。
たとえ、私はただの部下であっても。
もともと、隊長は天の御使い。そもそも私なんかが手の届く人ではない。
北郷警邏隊の隊長と副隊長という関係上、親しくして頂いているが、本来は天と地ほど離れた人……。

でも、でも、それでも、隊長と一緒に居られるのであれば……。

すぐ側に、手の届くところに隊長が居るのであれば……。

私の真名を気安く呼んでくれるのであれば……。

それだけでいい。

少し、夢を見させてください。隊長。

少しだけでいいんです。あなたの側で。

少しだけ……。