るるる 外伝 -1 〜風の行方〜




「愛とは? 恋とは? 何がどう違う?」

目の前の少女の心を持った、白と青の精霊とも見間違うような雰囲気の女性の口から、苦しげな吐息のような言葉が漏れる。
ディー・アイエスエスジー・ゼロイチゼロゼロイチイチハチディー・アール・シロツメグサディーという耳慣れない響きの名前を持った己の末娘の使い魔という 存在は、眉根を寄せて自分を見つめてくる。

たった一つの言葉にしか過ぎないはずの”恋”それと”愛”。だが、その言葉は氷の中の炎のように、人の心を紡いでいく。
人の数だけ、そして想いの数だけ道があり、すべての道は正解でもあり、間違いでもある。
人の心の中で静かに美しく、そして激しく燃えさかる。
その炎は己の身を温かく照らし、導き、そして場合によってはその身を焼き尽くすやもしれない。

母である自分の立場から見てもシロ姉と娘の呼ぶ目の前の彼女は、深く娘を愛し、そして娘に愛されている。
だが、その心はまだ未熟であるようにしか映らなかった。それゆえ、なのだろうか。
幼い少女のように解く必要もない命題を必死に解こうとして苦しんでいるように感じられた。
娘との交流の過程で、その言葉の違いに気がついたのだろう。
そして悩んでいる。
一時の気まぐれであれば、そのような想いなど気がつくことも無い。真剣に向かい合っているのでない限り、このようなことで思い悩むことは無いだろう。
自分としては、愚直なまでの心の在りようが美しく見えて仕方がなかった。

――娘が息子であったなら
――目の前の存在が男性であったなら

幾度となく繰り返された自問を頭の隅へ追いやり、目の前の、少女のように不安そうな人へどのように答えようかと巡らせる。
ふと、思い出すのは自分が夫である若き日ヴァリエール公爵と出会った頃のこと。
それは一つの甘美なる思い出だった。


§  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §


「は?」
「は? じゃありませんよ、カリーヌ」
「し、失礼しました」
「いいですね、衣装はわたくしに任せておきなさい」

カリーヌは目の前のマルグリット王妃の言葉に耳を疑った。
王宮付きの近衛、それも王妃直属という立場上、王妃が中庭に散策に出かけると言えば付き従って安全を確保するのが自分の仕事である。
そして、王宮の中庭の艶やかな花々の中で散策をしていた王妃が、悪戯じみた表情で振り返って言い放った言葉は、カリーヌをひどく動揺させていた。
普段から殆ど表情を変えることもない衛士の権化の様な少女の慌てた表情に、してやったりとばかりに王妃が微笑む。


元々カリーヌは北方の国境に領地を持つ小さな地方貴族の騎士団団長の家に生まれた。幼い頃に母を亡くし、温かいが非常に厳格な父親との二人で暮らしてい た。
騎士団長とはいえ辺境の小領主の騎士団でもあり、それほど裕福でもなく慎ましい生活だった。それなりに幸せでもあったのだが、一つの転機が訪れる。
幼い頃から非凡なまでの魔法の才があったカリーヌは、物心がつく頃には魔法の才で父親をあっさりと追い抜いていた。
魔法に関しては主に父親が教えていたのだが、自分の能力を大幅に超える娘に対して教えることは既に無くなっていた。
十三才になる頃に、その才能を惜しんだ父親は王都の魔法学院で、思う存分その力を伸ばせるように。と奔走する。
結局、伝統あるトリステイン魔法学院は無理だったが、それでも小さな魔法学校にカリーヌを在籍させることになった。
いくら小さな魔法学院とはいえ王都近郊でもあるため貴族の家系のものが多く、閉鎖された中で社会の縮図は健在だった。
貴族世界の中でも、ほぼ最下級の出である立場にもかかわらず、ずば抜けた容姿、そしてずば抜けた魔法の才も、その小さな箱庭のような世界の中で嫉妬の洗礼 を浴びる一因となる。カリーヌ自身がそれほど器用な性格では無いことも、それを助長する。
それほど気が長い方ではないカリーヌが圧倒的な実力で切り返すと、今度は陰湿な搦め手の洗礼を浴びることになった。
閉口したカリーヌは、規則を盾に取り、有無を言わさぬ厳格さで対応することで、周囲の雑音を掻き消していく。
思えばこの頃の経験が、貴族社会でのカリーヌの有り様を決めたのかも知れない。

入学時に、既にスクウェアの領域に届いていたカリーヌは、最初の半年で教師陣から学ぶ物は無くなっていた。
小さな世界の中で異質な空気を身にまとった学友に率先して手を差し伸べる奇特で、強靭な精神の持ち主にも出会えず、学校の図書館に籠もり、魔術書を読みあ さる日々が続くことになる。
周りのクラスメートに鉄の魔女、風のゴーレムとも揶揄され、教師陣に鼻白まれ、腫れ物扱いをうけながらも、いくばくかの平穏が訪れ、静かに日々が過ぎゆ く。

月 日は流れ、あと半年で卒業という頃、生徒たちは自分達の進路にざわついていた。自分の学院から輩出する逸材を公的機関や軍に積極的に売り込んで学院の地位 を高めようと、弱小学院の教師は奔走するのだが、ほぼ全方位から煙たがられていたカリーヌを率先して売り込む教師はいなかった。
カリーヌはもちろん生家に戻るつもりでいた為、別に痛痒は感じなかったが、父親の強い勧めと、学院で唯一の味方であった恩師の推薦で、トリステイン王軍へ の道を選択することになる。

カリーヌは卒業と同時に恩師の推薦状をもって王宮へ出向いた。
王軍の人事官の面接を受けに行ったわけだが、たまたま出会った鷹のような目つきの老騎士の取り成しによって本来の推薦先とは異なる近衛隊の事務室に連れて いかれたことも一つの切っ掛けだろう。
その老騎士は長く近衛隊の隊長を勤め上げた人物だと後に聞いてカリーヌは驚いた記憶がある。
いずれにせよ、魔法の才能に長けた人材が多いトリステイン王国でも、この若さでのスクウェアメイジというずば抜けた能力と、元隊長である老騎士の助言もあ り、能力的な意味では近衛への配属に問題はなかった。
だが、数少ない近衛の一員に女性が混じることを嫌う隊員も多いのと、出自の問題で、近衛の中核である魔法衛士隊ではなく、王家の女性を護衛する専任部隊に 任官することになる。

実 質的に王家の女性という枠に入るのはマルグリット王妃とマリアンヌ王女だけであり、近衛の専任部隊とは言ってもカリーヌを入れて五人しかおらず、ある意味 近衛の中の閑職であったが、王宮勤めなどしたことも無いカリーヌには、見る物聞く物すべてが真新しく、平穏だが忙しい日々が流れていく。

一年ほどたった頃、一つの知らせがカリーヌをどん底に突き落とした。

――故郷で始まった紛争。

故郷のある北方地方のきな臭い雰囲気は感じていた。
普段からしばしばトリステイン王国と小競り合いを続けていた北方諸国のうち、特に好戦的な国家との間の諍いが発生し軍事衝突が勃発してしまったらしい。
急襲を受け、生家があった地方が軒並み制圧され、トリステイン諸侯軍が動く事態にまで発展する。

トリステインの北東部は、南部に位置する強大なゲルマニア帝国と、北部の都市国家集団が激しい鍔迫り合いを演じており、近い将来ゲルマニア帝国が統一する ことが誰の目に見ても明らかだった。
じり貧になってきている都市国家群が、比較的与しやすし、と判断したのか、当の首長の気が触れたのかどうか定かでは無いが、何をとち狂ったか牙をトリステ インに突き立ててくる。トリステインを併合して国力を強化させてゲルマニアに対抗しようと考えたのかもしれない。
いずれにせよ、通常の判断ではありえない行動に、狂犬に噛まれた形のトリステイン王国は王軍が動く間もなかった。
王宮に伝令が届いて、慌ただしく王軍の出陣準備が進められたが、いざ出発という時に、今度は撃退したとの報告が上がってくる。

迅速に組織立てられた、というより烈火のごとく怒り狂ったヴァリエール公爵家一門の精鋭軍が一夜で敵軍を一蹴し、その勢いのまま敵の連合国家の一つを刈り 取ったとのことで、ゲルマニアに睨みを利かせるラ・ヴァリエールの実力を内外に示した格好になる。
王都の住人は、戦勝気分でお祭り騒ぎであったが、カリーヌにはそれどころではなかった。
国土は復帰し、更に少しばかり拡張することになったが、父親が仕えていた貴族家も壊滅に近い状態となったと聞かされる。

その知らせを聞いたカリーヌは焦燥に焼け付く心を抱え、一目散に故郷へ飛んだ。
が、やはり時間は巻き戻ったりしない。
ただの衛士の身でもあり、風竜などを使うこともできず、ウマを乗り継いで昼夜を問わず必死で駆け抜ける。
土埃にまみれ、強行軍で消耗し、それでも希望を捨てずに走り切ったその眼には無残に広がる戦いの後だけが映る。

必死になって父親を捜したが、ようやく見つけた父親は教会で変わり果てた姿で布に包まれていた。

侵略してきた敵に対し、少ない兵力で最前線で勇敢に戦って、そして倒れた。と、生き残りの騎士に伝え聞いた。
体中黒こげなのに背中が比較的綺麗だったのは、敵に背を向けずに何があっても前を向き続けていたからだろう。

カリーヌは、父親の物言わぬ体にすがって嗚咽をこぼした。

自分が住んでいた村も争いの場所となっており、自宅も損壊が激しかった。
父親の棺に入れる品を探しに幽鬼のように生家に向かったカリーヌの前に、温かい思い出が詰まった自宅が見るも無惨な姿を晒して、風に吹かれている。
カリーヌは身動きもせずに、全壊した生家をただ見つめた。

父親の葬儀など、感情が抜け落ちた人形の様に黙々と行ったカリーヌは、一月ほどで王都に戻った。
今や、カリーヌの居場所はそこにしかない。
普段から寡黙な方ではあったが、今のカリーヌは更に言葉を発することが無くなっていた。
ただ、日常の職務においては普段通りに振る舞うように心がけていた。

いつもの通りに、普段通りに。

誰もカリーヌの変化は気がつかなかった。私的なことを外に漏らすまいとするカリーヌの努力は成功した。はずだったが、目敏い王妃はカリーヌの心の内を敏感 に察したようだ。
もともと人情味の厚い、というか無駄に世話焼きな王妃はカリーヌを名指しで、自分の護衛として連れ歩き、プライベートな小さなお茶会では末席に座らせよう とまで画策する。
さすがに、カリーヌの抵抗にあってあきらめたが、王妃は何かとカリーヌに気にかけるようになっていく。
カリーヌはその心をありがたく思いながらも、好意に甘え度を超えないように、規範を壊さないように自らを厳しく律していた。
ようやく、心も落ち着いてきた、そんな矢先の出来事だった。


「妃殿下もお戯れが過ぎる」

王宮の廊下を、背筋をぴんと伸ばして近衛の象徴でもある金縁の白いマントを翻しながら、かつかつと音を立ててカリーヌは足早に歩いている。
廊下に点された魔法の灯火が煌々と輝いているため、時間の感覚が狂ってしまうが、空には二つの月が輝き、町の半分は静かな眠りについている時間だった。
王妃が言い出したのは、マリアンヌ王女の誕生日を祝うパーティーに、近衛の礼服ではなくて自分のしつらえたドレスを着て参加せよ。と言うものだ。
父親は確かにシュバリエの称号を持ち貴族の末端に連なる立場ではあったが、自分はその娘であって当然ながら爵位などは無い。
そんな人間が、王族の誕生パーティーという、ある意味で最も重要な場に客として参加するなどあり得ない。
強行に反対したが、「夫の許可も得ています」と言われ、「王命です」とまで告げられると、カリーヌとしては黙って頭を下げ拝命するしかない。
しかし、ドレスなどは少女時代に何かの行事で着た以来で着たこともなく、そもそもそんな華美な式典で使えるようなものは持っていなかった。
だから参加するのはおこがましい。と伝えると王妃は、にこやかに笑って、「なら、私が作ります」と、うきうきと弾む足取りで、あれやこれや手配を始める。
カリーヌは、密かに大きなため息をついた。

王宮から外に出て、赤と青の月を見上げる。
夏も過ぎ、森が紅葉しようかと言う季節。夜は肌寒い。
門衛の衛士に挨拶を交わしつつ、勤務中は邪魔にならないようにと、後頭部でシニヨンにまとめた桃色がかった金髪を振り解きながら隣接する営舎の自室へ向か う。

その足がふと止まった。
眼を細めたカリーヌは振り向きざまに、魔法の様に現れた小さな杖を立木にかざす。一瞬の早業であり、夜目にも鋭く光るカリーヌの視線と杖に射貫かれた木陰 に隠れるように立っていた男はびくっと動きを止めた。
カリーヌは近衛用の儀典的な拵えのレイピアを模した魔法の杖を常用している。そして、それとは別に、いつも一振りで手に取れるように右手首につけた仕掛け 腕輪に小さな古い魔法の杖を常時身につけていた。幼い頃に父親がわざわざ取り寄せた名工の手による杖だ。
咄嗟に出たのは、その父親の思い出の詰まった小さな杖の方だった。
王妃付きの近衛という立場で奥に籠もっている為、一般にはあまり知られていないが、極一部の間で噂される実力と、性格に裏打ちされた鬼気とも言える圧力が カリーヌの周囲を一種の氷の結界の様に包み込む。
まるで真冬の荒野の様な圧倒的な圧力の前に冷や汗を垂らす若い男を、剣呑な眼で睨み付けていたが、ゆっくりと杖を納める。

見知った男だった。

「かような夜更けに、かような辺鄙な場所では何をされておられますか。ここは近衛の営舎であります。クール子爵。関係の無いお方は大変申し訳ありません が、お引き取りを」
「や、や、やぁ、麗しのカリーヌ君。か、関係ないことはないぞ?」
「……」
「私はトリステインの貴族だ。それも王宮に勤めている。であれば近衛の衛士に……」
「では、明日の業務に差し障りもありましょう。お早めにお休みになられた方がよろしいかと存じます」
「う……」
「ちょうど良いところに、衛士が参りました。その者に護衛を任せますので、ご安心くださいませ」

そこに居たのはジャック・ソレル・ド・クール子爵。
銀髪を優雅に波打たせ、すらりとした身のこなしの瀟洒な雰囲気の見た目も麗しい若者で、政務方の重鎮であるアニェス伯爵の嫡子でもあり、婦人方に圧倒的な 人気を誇っている子爵家の当主であった。
当の本人も父親と同じく政務方の財政部門に身を置く将来を嘱望されている。
ただし、カリーヌとしては、貴婦人方の笑みを誘い、頬を染めさせる軽やかな行動と、美辞麗句をちりばめた底の浅い言葉が信用する気になれない人物でもあ る。
特に、たおやかな女性像と言う物を信奉しているのか、王宮に出仕するようになって初めて会った時以来、何かとちょっかいをかけてくるのもカリーヌの神経を 逆撫でしていた。
近衛の制服などという無骨な服は脱いで、淑女にふさわしい艶やかなドレスを着てみては? やら、子爵家主催のパーティーに主賓として招待するだの、挙げ句の果てには求婚まがいの言葉までかけてくる始末。
王 妃の護衛を勤め、様々な上流階級の女性陣の会話を耳にするにつれ、王宮に出入りする男性貴族の行動と規範意識に、幼いころから淡く抱いていた高貴な貴族の ふるまい。という幻想を打ち砕かれ、げんなりする日々だった。そして目の前の子爵が、その中でもダントツの筆頭だった。
日頃の行いや、言葉の端々から漏れ出る高慢な雰囲気。相手に分からせずに責任をすり抜けていく巧みな社交術。
性格的なものも有り、できるだけ側に寄って欲しくない人物、カリーヌの嫌いなタイプの人物でもある。
しかし、何をとち狂ったか、この子爵は最近頻繁にアプローチをかけてきていた。

クール子爵に忌避感を持っていることを、なにかの拍子にマルグリット王妃に知られた時に、手に持った羽扇子で口を押さえながら大笑いをされたことを思い出 したカリーヌは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
いい加減、不愉快な場から立ち去りたかったカリーヌは、門衛の衛士が近寄ってくるのを目の端に捕らえ、絶句する子爵に非の打ち所が無いような礼をして、足 早に立ち去った。

最近、会う人がそれぞれのやり方で、自分の心に波風を立てる。
苛立つことが多くなったカリーヌは重いため息をついて、思うようには行かないものだと首を振った。

玄関口で、これから出勤の深夜番の同僚と出会った。カリーヌの顔を見るなり真っ青な顔で、何故か奇妙に引きつった表情を浮かべて道を空けてくれる。
カリーヌは軽く挨拶をして自室へ向かう。

「この私が、ドレスなど……」

王妃の言葉がカリーヌの脳裏を駆け巡る。
それは、ある意味、カリーヌにとって人生最大の難題かも知れなかった。


§  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §  §


ケンの月(十月)、フレイムの週のダエグの曜日。明日は虚無の曜日を控えたその夜にマリアンヌ王女の十才の誕生日を祝うパーティーが日が空を茜色に染め上 げ始めた頃に盛大に開かれた。
各国の大使が参加し、国内の主貴族の大半が集まり、王宮は花と料理と酒に溢れている。
国王、そして主賓である王女が勤めを終え、宮廷音楽隊が優雅な音楽を奏で、色とりどりのドレスを着た姫君達がホール一面に花を添える。
魔法衛士隊の三隊も、それぞれの乗騎である幻獣を中庭に並べて参加していた。彼等は軍部のエリート集団に近いものでもあり、将来を確実視されている。嫡男 でない人間が多く、家柄がどうの、家格がどうのとか言う心理的障壁も低いので、若い女性達の熱い視線を浴びていた。
貴族社会のパーティは政治と出会いの場でもあり、年長者は絢爛な会話の間に探りの言葉をいれて神経を張り巡らせ、特定のパートナーのいない年若い子女は積 極的に相手を探していた。

華やかに咲き誇る花々を横目に、壁に直立している衛士の横で、カリーヌはグラスも持たずに文字通り壁の花と化していた。
肩を出した艶やかな光沢の青いドレスに、瀟洒な純白のレースでできたロンググローブをつけ、髪を高く結い上げているその姿は、申し分ないまでに美しく、険 しく鋭い視線を外し、柔らかな微笑みを浮かべたら即座に求婚者の山が出来そうなほどだ。
その意味で言うとクール子爵の女性を見る目は確かなのかも知れない。

一見たおやかに、艶やかに見えるが、雪原のブリザードのような雰囲気をまとった彼女には、興味を持って近づいてきても、その射貫くような視線と、冷ややか な態度を突き抜けて積極的に声をかけるような胆力のある人間は居ない。
近寄ってきては、なにか急に用事を思い出した様な雰囲気でそそくさと離れていく男達ばかりであった。
カリーヌは、ちくちくと刺さる視線を彫像の様な無表情で丁寧に黙殺し、自分が守護すべき王妃を見つめていた。

その視線をふっと遮る者がいる。
すこし思索にふけっていたか? と慌てて気を取り直し、相手の顔をみたカリーヌの表情が更に硬質な物と化す。

「やあ、どこの令嬢が居られるのかと思って来てみれば、まさか君だったとは。しかし、そのサファイアで出来た精霊の様なその姿はかの水の精霊様の美しさに もひけを取るまい。ぜひ、私とダンスでもいかがか?」
「クール子爵。大変光栄ではありますが、私は現在職務中であります故、ご容赦くださいませ」
「いやいやいや、その身なりで職務など、”ぼくは始祖だ”と言うぐらいあり得ないが? もし、ダンスが苦手なのであれば、私がステップを教えてあげよう。さぁその手を私に預けたまえ、蒼穹の華よ」
「……」

子爵の言葉はカリーヌには何の感銘も与えなかった。
輝くばかりの銀髪をゆっくりを描き上げ、印象的なグレーの瞳に浮かんでいるのは、微かな優越感とダンス後の密室でのやり取りへの欲望を押し隠した光だっ た。
子爵の取り巻きの女性陣が、どう見ても好意の欠片も無い視線でカリーヌを見つめては、羽扇子で口元を隠しながら、ひそひそと言葉を交わしているのが眼の隅 に映る。
カリーヌの脳裏に魔法学校でよく見た光景がリフレインする。
だが、あの時と違い、れっきとした貴族で王宮でも有名人である子爵が、このような公式の場で誘った以上、すげなく無視すことも叶わない。

徐々に視線が集まる中、カリーヌはどのように断ろうかと、必死で考えた
こうなることを相手が理解して……いや、すべて計算ずくだったのだろう。カリーヌの前に佇む銀髪の貴公子の目には、微かに嘲笑を含んだ、勝ち誇るような色 が溢れている。
相手の顔に泥を塗るような断り方をすれば、ややこしいことになるのは確実だった。
とはいえ、その手を取ってしまったら、なし崩し的に持って行かれるのは目に見えている。
これが町中で、下婢た若者に声をかけられているのであれば、有無を言わさず空高く吹き飛ばして居たところだが、王宮のそれもパーティーの真っ最中にそんな ことをするわけにも行かない。
何よりも、自分をこの場に招待している王妃の顔をつぶしてしまう。

……八方塞がりだった。

いっそのことすべての物を投げ出して、目の前の優男に思いっきり魔法を打ち込めればどれほど、気分が楽になるか。
しかし、王妃付きの近衛というカリーヌとして、それは出来ない相談だった。

何の反応も返せないカリーヌの様子に、了承と受け取った子爵は、満面の笑みを浮かべその手を取ろうとする。

「カリーヌ?」
「あ、は、はい」

暗澹たる覚悟を決めかけていた時、救いの主は意外な所にいた。王妃の側にいてニコニコと笑顔を振りまいていたはずのマリアンヌ王女が、訝しむような表情で すぐ近くに立っている。
今年十才になる少女は淡い桃色のドレスを身につけ、カリーヌと目が合うとにっこりと笑う。

「失礼します。クール子爵。王女殿下がお呼びですので」

カリーヌはその笑顔に救われた気がした。
これ以上ない援護に感謝し、これ幸いと丁寧に頭を下げてから、小走りにすり抜けるように王女の元へと急ぐ。

「私は欲しいと思った物は必ず手に入れる。必ず……だよ」

すり抜ける時に、クール子爵の何かを押し殺したようにつぶやくような言葉がカリーヌの耳に刺さる。
その言葉に、こめかみに青筋が浮かぶのと同時にスカートのドレープに隠して居る杖に手を伸ばした。が、怪訝そうな表情の王女を見てなんとか自制して、その 手を引っ込める。

「ありがとうございます。マリアンヌ王女殿下」
「どうしたの? わたし、なにかしたのかしら?」
「いえ、いいんです。で、いかがしましたか?」
「あ、そうそう、おかあさまがカリーヌを呼んできて。って」
「わかりました」

自分を救ってくれた、まだ、あどけない表情が残る救世主が、カリーヌの手を取って歩き出した。その足が、ひときわ人が集まっているホールの真っ直中へ向 かっているので、カリーヌは少々気後れがする。
出来るだけ目立たないように、ひっそりとしていたはずなのに、主賓である王女に手を引かれて歩くという行為に、そこかしこから怪訝そうな視線を浴びる。
あの青い服の女は誰だ。カリーヌには貴族たちの心の疑問が聞こえるようだった。
それがホールの中心ともなればなおさら。改めて自分がひどく場違いな世界に入ってしまったかのように、身の置き場が無いように感じられる。
しかし、マリアンヌ王女に付き従って、その場に近づくにつれカリーヌはおや?と首を傾げた。そこだけ雰囲気が違っている。
よく見ると、何故か魔法衛士隊の人間が比較的集まっていて、他の集団に比べ何となくピリッとした空気に包まれていた。
その雰囲気はカリーヌも、まだ馴染みがあった。というより、ある種心地よかった。

「お母様、お母様、連れてきましたわ」
「まあ、ありがとう。マリアンヌ」

マリアンヌ王女に気がついた人垣が波が引くように割れていき、国王夫妻と談笑しているアッシュブロンドの若い貴族の姿を露わにする。
どう見ても二十代前後、自分とさほど変わらないように見えるのに、父親ほども離れた相手を前に一歩も引けを取らず堂々と会話している。
紺色を基調とした活動的なドレスシャツの装いは、パーティだからと浮ついた派手なアクセサリーやら、大きなカラーの服を着込んで居る他の貴族達と一線を画 している。
この場の雰囲気を作っているのは間違いなくその青年貴族だった。
近づいた王女達に気がついたのか、アッシュブロンドの髪をなびかせた、細身だが精悍な猛禽を思わせるような顔つきの青年貴族がふっとカリーヌに顔を向け た。
ほんの一瞬だけだったが、その青年貴族の眼に、何もかも貫き通すような鋭い物が混じる。

――強い。

視線が交差した、その一瞬で分かってしまった。
青年がその光を浮かべたのは、ほんの瞬きをする間だけだった。既に髪とよく似た色の瞳からは剣呑な光は影を潜め、柔和な笑みを浮かべている。
誰も気づいていないが、カリーヌには分かった。
青年貴族が、ほんの少しだけ露わにした魔力の波動は、魔法衛士隊の隊長を前にしても、感じたことがない程の強力な物だ。
どう考えてもスクウェアレベルの力を持っている。
その殺気にも思える魔力の気配が、長年使うことなく燻っていたカリーヌの闘気に火をつけ始めていく。
今まで、何か空虚で色褪せたような世界がふっと色を持ち、鮮やかに動き始めた気がする。
故郷を離れ、王都に来てからの数年で鬱屈し、錆び付いていた歯車がゆっくりと回り始めていく。

――好敵手を見つけた。

そう言って良いのかも知れない。

あまりにも強い力を持っているが故に、王都に来てからは全力を出すことは無かった。周りの人間達に比べ、自分だけ浮いていた。それ故、何事も無気力になっ ていた。
しかるに目の前の青年貴族はどうだ。同じく強力な力を持っていて、自分のように無気力ではなく溢れる様な精気に満ちている。躍動感に溢れている。まるで大 空を舞う大鷲のように優雅に羽ばたいている。
なんという違いか。自分は何をしていたのか。

青年貴族を見据え、硬直したようなカリーヌに、何かを誤解したような王妃がクスッと笑みを浮かべる。

「カリーヌ、あなたとしてはある意味縁の深いお方ですわよ」
「……は?」

王妃の言葉にカリーヌは、はっとしたように我に返った。あわてて王妃を見やると、包み込むような穏やかな視線が迎える。
カリーヌは目の前の貴族の面識がなかった為、王妃の言葉に戸惑う。
その表情を見て、軽く頷いた王妃はそっと手をかざす。

「こちらはミシェル・マルセル・ル・ブラン・ド・コリニー伯爵。先の紛争を勝利に導いたラ・ヴァリエール公爵の公子様ですわ。
そして、ド・コリニー伯爵。こちらは、先ほど話していた先の戦役の……カリーヌです」

その言葉を聞いてカリーヌは納得した。いち早く戦地に駆けつけ、敵軍を打ち破ったラ・ヴァリエール公爵軍。電光石火のごとき公爵軍が来なければ、故郷は もっと荒廃していたはず。

「……王妃殿下より事情はお伺いした。レディ・カリーヌ。我々の到着が遅れた故、貴君の父君を含め、幾多の犠牲を強いてしまった。大変に申し訳ない」
「あ、いえ、ド・コリニー伯爵閣下。頭をお上げくださいませ。即座に敵を打ち倒し、犠牲を最小限に抑えることが出来たのはひとえに閣下率いるラ・ヴァリ エール公爵麾下の皆様のおかげでございます。感謝することはあれど、謝って頂く身ではありません」
「そう言っていただけると、ありがたい」

そして、そのラ・ヴァリエール公爵軍の司令官だった若き公子は、王妃の言葉に納得したかのように大きく頷いた後、自身の目の前で、恩に着せるどころか、悔 しそうな表情で己の過誤を恥じる言葉を口にする。
王妃から聞いていると言うことは、自分が爵位の欠片も持ち合わせていない只の衛士であるということを知っているにも関わらず。
カリーヌはその言葉に若き伯爵の本当の意味での苦悩を感じ取った。口先だけではなく、本気で守ろうとしていたことが感じられる。
ゲルマニア帝国に対する楔として、トリステイン王国の武門としてのラ・ヴァリエール公爵家の姿を見たような気がする。その印象は小さいながらも領地を守る ことに誇りを持っていた父親に通じる物があった。
カリーヌの眼が微かに潤む。

「あらまぁ、ド・コリニー伯爵、今日はマリアンヌの誕生パーティーですのよ」
「おっと、これは大変申し訳ないことを致しました。マリアンヌ王女殿下、平に御容赦を」

随分と静かな話になりつつあったところを、にこやかな王妃の声響き、停滞した空気を振り払った。
おどけたような表情と声音で、ド・コリニー伯爵をつつきあげる。心得た若き伯爵も肩をすくめ、芝居がかった様に大仰に腕を胸に深々と王女に向かって一礼を する。
一気に硬質だった空気が緩み、その場ががやがやと会話の騒音で満ちていく。
カリーヌはその切り替えの機転に感心していたが、続けざまに放たれた、王女のこましゃくれた言葉に眼を剥いた。

「そうですね、では罰として、わたしの友人でもあるカリーヌをエスコートしていただきますわ」
「マ、マ、マリアンヌ殿下っ! 私はっ」

慌てて抗弁するが、無駄だった。マルグリット王妃の入れ知恵なのだろうが、小悪魔の様な表情を浮かべたマリアンヌ王女は、だーめ。とばかりに微笑んだ。
慌ててマルグリット王妃に助けを求めようとすると、もっと大きな小悪魔がそこにいた。

「そう言うことですので、ド・コリニー伯爵。カリーヌをよろしくお願いしますわね」
「ははっ、王女殿下のご友人をエスコート出来るとは光栄です。ではカリーヌ殿、しばらくおつきあい願えますか」

にこやかに、してやったりの表情を浮かべた王妃を前に、若き伯爵は相好を崩す。
カリーヌは王妃に嵌められたと理解したものの、不思議と不快ではなかった。そして優雅に差し出された若き貴公子の手を拒む思いもなかった。少し前に差し出 された別の手とは全然違う、暖かな手がそこにある。
カリーヌは精一杯顰めっ面を浮かべながら、ゆっくりとその手を取った。

「は、伯爵閣下、これは王女様のおっしゃった罰ですから。仕方なく。です」
「肝に銘じましょう、レディ・カリーヌ」

その言葉に苦笑を浮かべつつも何か面白そうな表情を浮かべた若き伯爵は、困惑した表情の、だけど少し微笑みを浮かべたカリーヌをゆっくりとホールに誘う。